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モンテアレグレ訪問記(後篇) (2026/07/15)
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高谷和夫さんの取材を終えて、モンテアレグレ日本人会(石黒ジョルジ会長)の会館に連れて行ってもらうと、同地の会員関係者十人ほどが集まっていた。 同会館では午前中、JICAブラジリア事務所の吉田憲次長が同機関について説明。汎アマゾニア日伯協会事務局長の堤剛太氏も会員を対象にした農業調査を行ない、終わったところだった。 その中に、東京農業大学OBの大竹秋廣さん(六三、静岡県出身)の姿もあった。この会合のために、約五十キロ離れたマカカ地区から車を飛ばしてやってきたという。 大竹さんの向かい側には、高谷家の長男で、和夫さんの兄である信夫さん(七〇、長崎県出身)が座り、久々に会員同士で集まったとして談笑している。 昼食時間となり、会員の皆さんと一緒に市内レストランで食事をすることになった。モンテアレグレ名物の「アカリ=鎧(よろい)ナマズ」をご馳走してくれるという。 この日の午前中、和夫さんを取材した際、「アカリ」をたくさん仕入れていたのを見せてもらったが、一同の腹に収まるとは思ってもみなかった。 和夫さんは、我々が日本人会館に行っている間に、アカリの刺身をさばいてくれていた。「鎧ナマズ」という名前のごとく、アカリは皮が硬く、気を付けなければギザギザに尖った皮で手を切ることも少なくないという。 刺身にして食べるには、一匹では歩留まりが悪く、二皿分の刺身を作るのに和夫さんは、十匹以上のアカリをさばいてくれたことになる。 赤身が濃い刺身を早速いただく。今まで食べた魚類の中でもっとも歯ごたえがあり、食べ続けると顎(あご)が痛くなるほどだ。それでいて甘味があり、以外と生臭さもない。 「アカリは、アレンケールかモンテアレグレで獲れたものでないと、美味くないんですよ」と信夫さん。産卵前の十一月か十二月頃のものがもっとも美味しく、産卵後は身が痩せるために味が落ちると説明してくれた。 刺身以外にも、炭火で焼いたアカリや煮たものも試食してみる。見た目はグロテスクだが、噛むほどに味が出てくる。アカリは味噌とも合うらしく、味噌汁も美味いという。 ちなみに味噌は、パラー州トメアスーに在住する第一回アマゾン移民の加藤昌子さん(八〇、秋田県出身)が作ったものが同地まで来ていると聞いて、驚かされた。 信夫さんは同地で、「野菜づくりの名人」と言われ、身体を悪くする二年ほど前までの十五年間、ナス、トマト、キュウリなどを栽培していた。 「キュウリを作った当初は、ブラジル人たちに『こんな小さなものはダメだ』と言われましたが、辛抱強くやっていると、そのうちに人気が出ましてね」 「昔はよく、野球をやった後などに皆が会館に集まってアカリを食べたものです」と信夫さんは、一世世代の減少とともに会員同士の集まりが悪くなったことを寂しく思っているようだった。
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昼食後、午後二時半からモンテアレグレ日本人会の石黒ジョルジ会長たちの厚意で、大竹さんが在住する市内から五十二㎞離れたマカカ地区まで連れて行ってくれるという。我々一行のために、四輪駆動車二台を用意してくれていた。 記者が便乗した車の運転は、東京農業大学OBだった故・岸靖夫さんの次男であるイタジュリさん(二五、二世)が務めてくれた。同氏はマカカ地区から程近いリモン地区で、父親から受け継いだ農場を管理している。岸さんの未亡人・セッタさん(伯人)も同乗し、明るい性格である彼女の声が弾む。靖夫さんは、これから目指す大竹さんの先輩に当たるという。 市内から再び日本人会館の前を通過し、雨でぬかるんだ赤い土道を行くが、半世紀ぶりの大雨の影響で途中の道はところどころ川のように浸水し、思うように進めない。デコボコ道に車体を揺らせながらの行程が続く。 町から二十五㎞地点で、進行方向右側の民家へと入っていく。家の中で赤いヘッジ(ハンモック)で寝ていたのは、戦後ドイス・ガーリョ地区に入植したという半田長三郎さん(九九、山形県出身)だった。一行の突然の訪問に驚きながらも笑顔で迎え入れてくれ、耳が少し遠いが、ヘッジの上に座りながら昔の話を聞かせてくれた。 半田さんは、山形で農業生産を行なっていたが、航空隊として徴兵され、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)にも行った経験があるという。戦後、アマゾン移民の募集に応募。モンテアレグレの同地に入植したが、夫人は身体が弱く、四十代半ばで亡くなった。その後は、非日系女性の家政婦が九年前から身の回りの世話を行ない、四年前に正式に半田さんの幼女となり、面倒をみている。 「もう、昔のことは忘れた。死にたいが、なかなか死なせてくれない」と、本音とも冗談とも分からない言葉を笑いながら話しながらも、半田さんは周りに勧められるままに日本の歌を歌いだした。「お富さん」「上を向いて歩こう」「君が代」などを嬉しそうに歌う半田さんに別れを告げ、一行はさらに奥を目指した。 イタジュリさんによると、半田さんは二〇〇二、三年頃に脳溢血で倒れるまでは父親の靖夫さんのことをよく覚えていたが、今はもう当時のことはほとんど忘れていたという。 その靖夫さんは〇四年、ガンで亡くなった。まだ六十三歳だった。生前の靖夫さんは「アカリ」が大好物で、自分の土地に「アカリランジア」という名前を付けていたほどだったとイタジュリさんが説明してくれた。 一行は、三十七㎞地点のムラタ地区を通り過ごし、さらに奥へと進む。リモン地区の岸さんの農場で停車。実践しているアグロフォレストリー(森林農業)を見せてもらう。 同地は「アカリランジアⅠ」と「アカリランジアⅡ」に分かれており、総面積は百二十ヘクタール。ゴムを中心に、クプアスー、パイナップルなどの熱帯果樹を混植しており、ゴムはミシュラン社に卸しているという。 農場を継いでいることについてイタジュリさんは、「自分たちは日本人の子弟として、ここに留まる必要がある」と語り、父親への思いを示していた。
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午後五時過ぎ、ようやく大竹秋廣さん(六三、静岡県出身)の農場に到着することができた。モンテアレグレ市内から五十二㎞の道のりを、通常の乾季には「片道一時間」(大竹さん)で行くはずが、大雨の影響で約三時間近くかけて来たことになる。 予定よりかなり遅れたため、「もう、来ないかと思っていた」と話す大竹さんに早速、農場内を見学させてもらう。 アグロフォレストリー(森林農業)を取り入れ、今でも現役の農業生産者である大竹さんは、一九六九年十月に「ぶらじる丸」で着伯。ブラジルに行くにあたっては、四期上の先輩にあたる故・岸靖夫氏から在学中に、同期の加藤和明氏(故人)、大槻雄二郎氏(日本在住)とともに共同経営農場の話を持ちかけられたという。 共同農場には、六六年に入植した岸氏が場所選びなどを行ない、加藤、大槻の両氏は在学中に一度、同地に足を運んでいる。大竹さんは在学中に一年間、米国のアイオワ州の穀倉地帯で農業研修を行なった経験を持つ。その後、ブラジル移住を選び、モンテアレグレにある農業協同組合の職員を経て、七二年に同農場に入植している。 「東京農大卒業生アマゾン移住五十周年記念誌」によると、七〇年代のモンテアレグレは全盛時代で、幹線道路の整備、地権交付、銀行融資など移住地の環境も好転。ピメンタを中心に牧畜、野菜、果樹などを組み合わせた営農も行なわれていたという。 大竹さんは「その頃は日本人が多かったし、皆、燃えるものを持っていました。組合も発展したし、新しい作物に挑戦したり充実していましたね」と当時を振り返る。 しかし、八〇年代に入ると、ハイパーインフレによる経済不況をはじめ、主作物であるピメンタの価格低迷や病害などの諸問題に悩まされ、移住地を出る人も続出した。 大竹さんは、同地で紀子(みちこ)さんと結婚し、一男四女の子宝に恵まれたが、八五年に紀子夫人に先立たれた。大竹さんもブラジルの不況の波にもまれ、九三年から一年間は、日本で出稼ぎとして働いた。 モンテアレグレに戻った大竹さんは、ブラジル人で公務員のルシアさんと再婚。ルシアさんは平日は町で働き、週末には農場のあるマカカ地区で一緒に生活を送っている。大竹さんは、週二日はモンテアレグレの町に出ていく生活を続け、子供たちはそれぞれにベレンなどの都会に在住しているという。 「移住地ではNHKも入らないし、(伯国大手メディアの)グローボ局も映りが悪くてね」 現在、移住地ではピメンタを中心に、カフェ、柑橘(かんきつ)類やモギノ(マホガニー)などを混植した森林農業(アグロフォレストリー)を行なっており、日本人の几帳面な性格がなせる業か、きれいに整えられた農場が印象的だった。 森林農業は、農大の先輩で〇七年四月に他界した坂口陞(のぼる)さんから教えてもらい、二〇〇〇年から始めたという。その間、モンテアレグレとトメアスーの間を行ったり来たりする生活を送ったが、その時の思いが実を結んでいる。 「日本から出てくる時は単身でしたが、ここでは自分の好きなように生きてきたし、日本に帰るつもりは無いですよ。続く限りはここで、やっていこうと思っています」と大竹さん。モンテアレグレの日本人が少なくなる中で、自らに言い聞かせるかのように話してくれた。(おわり)
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