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日系社会の天皇観④

日系社会の天皇観④ (1997/04/30) 馬場啓介さん

 馬場謙介さんは一九二〇年(大正九年)、東京植民地(現アララクアラ市)生まれの二世。当時の日本式教育を受けた。最も古い植民地の一つであるアララクアラ線の東京植民地は一九一五年に、父親である直さんをリーダーとする十五家族が入植。
 東京植民地は、模範植民地として、歴代の総領事、大使などの視察訪問も度々あったほど。特に日本語教育に力を入れ、入植と同時に丸太にワラぶきの学校を建て、翌年には当時としては立派な木造校舎と運動場を完成させている。入植者は、すべて錦衣帰国を考えていたので、同小学校では日本の教育をそのまま行っていた。天長節運動会、先没者慰霊相撲大会などの行事も行われていた。馬場さん自身も同小学校の卒業生。それでも「その当時、天皇は先祖代々、国民をまとめる偉い人」というような認識しかなかったという。
 馬場さんの場合は、その後、日本で教育を受け「どうして日本国民が天皇に対して最大の敬意を払うのか、日本で生活してみて初めて気付いた」と語る。四一年、外務省の初の招聘留学生として渡日、師範学校卒業。しかし、戦争のために帰国できず、東山産業に入社、シンガポール、スマトラなどに赴任した。さらに戦後は国連軍の従軍記者として朝鮮戦争まで行っている。「皇室に対する偉大さを知ったのは、日本に行ったから、ブラジルに居たらここまで陛下を尊敬できなかった」と回顧する。
 また、終戦後、日本政府から「二重国籍の人は、日本国籍を離脱して欲しい」との要請があった。これは外国で日本の国際化に協力するためと、政府の負担を軽減するためとの理由。馬場さんは日本国のために離脱を決意した時、皇居に行き、宮城前に立った。「日本国籍は離脱したが、日本人であることには変わらないし、日本の繁栄のために力を尽くします」と誓ったという。
 以前に天皇陛下が来伯なさったとき、馬場さんは母親に陛下に対する気持ちを尋ねた。「良かったね、まだ見たことがない可愛い自分の孫が来たよう」。馬場さんの唐突な質問に、母親が咄嗟にでた言葉だった。すぐ後、母親は「私自身の素直な気持ちであるけど、こんなことは新聞に書くのではないぞ」と釘を刺されたという。それでも馬場さんは、母親の話を日本の出版社へ送り、『ブラジル日系人の感動』というタイトルで掲載された。「母の言葉は、その当時の日系人の気持ちを、象徴しているはず」と語る。また「自分が母親に、天皇に対する質問をすること自体、自分自身も天皇に対して関心を持って、敬意を払っていた証拠」。
 今でも、馬場さんは、日本に似た景色を見つけると感情が込み上げてくるという。「そんな時、車から降り高原に立たずみ」、東に向かい頭を深々と下げ、『海ゆかば』を声をあげて歌うという。『海ゆかば水漬く屍/山ゆかば草むす屍/大君の辺にこそ死なめ/帰りみはせじ』--この歌に、日本国籍は捨てても、陛下の赤子として生きる馬場さんの気持ちが託されているのだろう。(紺谷充彦記者・つづく)


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