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     ブラジルの農大生  (最終更新日 : 2009/12/21)
なつかしき同窓の人の話II  松尾三久

なつかしき同窓の人の話II  松尾三久 (2004/10/26) 独断と偏見に満ちたる一移住者の回想記2
松尾三久
 無事農大拓殖学科に入学し、用賀農場で初めての農業実習があった日に、豚舎の裏から現れた男がT君であった。その時私は随分豚に似ていると思ったが、他の同級生もそう思ったらしく、そのうち彼のニックネームは「ブー」とか「ブタ君」とかになってしまった。それでも彼は別に怒りもせずにいたのでこの名前が定着した。このT君、ちょっと我々とは違って、家柄が中々良いらしく、育ちも良いので、あまり私も話をすることはなかった。
 同級生の中の紅一点M子さんという女傑がいて、皆それぞれお世話になったが、特に私はM子さんがいなかったら間違いなく二、三年は卒業が遅れたであろうと思う。それで皆、彼女を尊敬して、H君は「M子ちゃんの処女を守る会」というのを作って守っていたらしいが、ある日のこと、朝の授業の始まる前に、何とT君とM子さんは二人で教壇に上がって「僕たちは今度婚約しました。卒業したら結婚して、南米に移住します。」と一方的に宣言したので、我々一同は、驚くやら呆れるやら何となく口惜しいやらで騒然となってしまった。杉野先生はニコニコして「まあ、皆、こういうことになったのだから祝福してあげたまえ。」とか言われたが、私は何となく不快であった。H君は「M子ちゃんの処女を守る会」というのを解散した。H君とは原島である。昔からそういう世話役が得意な男だったのである。それから皆、面白くない気持ちで杉野先生の拓殖原論とかいう講義を聞いた。昭和38年頃の事であった。
 昭和40年、M子さんがトップで代表となって卒業証書をもらい、私は後ろからトップで無事卒業し、「やれやれ、これでブタ君と会うこともないだろう。」とホッとした気持ちでブラジルにやって来た。それからパラゴミナス郡で三年働きすっからかんとなってブラジリアに移り、サンパウロを転々とし、パラナ州カルロポリスの伊藤農場に転がり込んだのは、昭和47年頃のことであった。女房はパトロンの家の女中、私は労働者、長女は生まれて一歳にもならない。毎日懸命に働いて日が暮れてから、東海道五十三次のような作業着のままカマラーダ(農場の使用人)とピンガ(砂糖黍の蒸留酒)を回し飲みするという日々であった。ある日のこと、いつものようにピンガを回し飲みしているところへ、一台の赤いフスカ(フォルクスワーゲン・ビートル)がやって来た。ドアが開いて二人の男が降りてきた。それは、拓殖二期JAMICの堀内さんとT君であった。「あー、T君、ピンガでも飲まないか。」という私の挨拶など無視して、「松尾、ロンドリーナに大きな道場が出来て先生を探している。明日会長と会うからすぐに行くのだ。」と強引に私を説得し、そして一ヵ月後には六年間の農業生活から足を洗い、柔道指導者として町に住むことになったのである。
 ロンドリーナで暮らした六年間、T君とM子さんは、毎日毎日親身になって我が家族の面倒を見てくれた。徹底的に面倒を見るのがこの二人の特徴なのであった。子供の躾とか、社会的常識とか、倹約をして貯金をしろとか、家族計画とか、色々教えてくれたものである。そのうち我が家は子供が五人になり、生活も苦しくなってきたところでミナスへ移った。T君もすぐその後バイーアにファゼンダ(農場)を購入してそこへ移った。これでもうT君と会うこともないだろうとホッとした気持ちで、私は昭和52年の暮れる頃、ミナスへ移ったのであった。(ここまできてペンが進まぬのでウォッカのカクテルを作って飲み、また書きつづけます)
 T君はバイーアで、私はミナスで、現地の人の後進性と無気力に悩まされながら十年が過ぎた。私は家族計画を誤って子供は八人になってしまった。苦しい年月が続いて女房は出稼ぎに行ってしまった。ある日、T君から電話がきた。「松尾、バイーアでの農業をやめて日本に戻り、金を作ってからカナダへ移住する。このファゼンダ(農場)を安く売るよりも、お前にやるから使ってくれ。」と言うのであった。私はT君の友情に言葉を失った。T君一家は日本へ帰り、私は今度こそ、もう会うこともないかと思ったのであるけれども…。
 平成2年、年老いた母にお別れをしようと、子供三人を連れて二ヶ月間日本へ行った時、その旅費を払う為に私は一ヶ月ゴルフ場の造園会社でT君と働いたのである。この拓殖学科の後輩の造園会社で働いている間、T君の住む安アパートに世話になり雑魚寝をし、私は色々な悩みをT君に話した。それは、ミナスの人達に柔道を教えても、ちっとも覚えてくれないといった自分の無能さを棚上げにしたような泣き言ばかりだったように思う。そんな時T君は「松尾、お前が柔道を教えていることは、他の人には真似の出来ないことなのだよ。いつか良くなるから頑張ってみろ。」と励ましてくれたものである。T君も又惨憺たる状態にあった。だが常に徹底的に人の面倒を見るT君M子さんの安アパートは、いつの間にかブラジル出稼ぎグループのクラブのようになってしまった。
 ブラジルに戻る前日、その安アパートでの別れは悲しく又苦しいものであった。だが、雪の降りしきる中、私の手をしっかり握ったM子さんの手は温かかった。
 もしかしてM子さんは私を愛していたのかもしれない?まさかね?!

 竹村君そして美代子さん。
今年9月ポッソス・デ・カルダス市長は、私の要請を受け入れ、畳約200畳とトレーニング場、合宿場付きの新道場を造り上げた。月給も今までの安いのを三倍に上げ、「今の子供達を教育できる場所は柔道場しかない、大いにやってくれ。」と言ってきたので、単純な私は「任せてくれ」とばかりに引き受けた。今までの優雅な生活は一変して練習アニマルのようになり、無気力なミネイロ(ミナス州の人)の生徒に泣かされていたのは嘘のように、生徒は400名近くなり、まったく嬉しい悲鳴を上げるようになってしまった。
 優秀な生徒は、サンパウロ市プロジェクト・フトゥロ(未来プロジェクト)へ送って猛練習をさせている。生徒の中から世界の舞台へ上がる者が出るのも遠い事ではないと思う。
 竹村君と美代子さんがその時は、「よかったねえー、松尾。」と言ってくれるであろうと先回りして考えている。
 先週、久し振りに美代子さんから手紙が来た。長女なごみは結婚して、次女まどかは都立大三年生、長男剛は農大二年生、竹村はカナダへ行けないが、何か又大きな事をする為に準備中であるという。
 今度いつ又竹村夫妻と会うことがあるのか分からないけれど、会えた時は美味い酒を飲みたいと思う。
 その時まで美代ちゃん待っていてください。
では、この辺でさよーなら!!
(1995年12月1日 伯国東京農大会 会報24号)


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