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2008年にいただいたコメントから。 (2009/02/03)
2008年は、宮沢和史さんとのヴァーレ・トゥード上映会やPARCでの4連続移動上映会、さらに日本とブラジル以外に台湾、アメリカでの上映など楽しい上映会をたくさん実施していただきました。岡村宛にちょうだいした作品へのコメントを少しずつアップしてご紹介しましょう。
 
 『郷愁は夢のなかで』
 
 ご本人の今と記憶を追っていくというものではなく、周囲の記憶の中から本人像を探っていくところが面白かったです。
 西さんが亡くなってしまったので、そうせざると得ない状況はあったのかもしれませんが、西さんの昔を知っている溝部さんの西さんの印象と、養老院や近所の評判は全く違う人を想像させます。
 もしかしたらそれが心を開く開かないの違いかもしれませんが、西さんご自身も変化されていったんだろうという感じがしました。
 溝部さんは、きっと西さんとご自身を比べることが多々あったのかと思います。
 ご自身もご苦労されていらっしゃいますが、例えば家族がいること、堅実さなど、日本に戻りたいと言わなかったこと(本当にそうかはわかりませんが)、などご自身を鼓舞できる相手として西さんが存在していたような気もします。
 日本人だから、身寄りがないから近い存在になっているという状況があったような気もしました。
 しかし、西さんの存在が実は溝部さんの証明にもなっていることを、西さんのことを思い返しながら実感しているように見えました。
 西さんの昔の住まい跡で「日本に帰る」ことを訊かれた時の溝部さんの表情が彼の今までを表していました。
 鹿児島での西さんの血縁者のインタビューは、私が九州出身と言うこともあって、非常に親しみを感じました。
 意外にさらりとしていて、逆にもっとどろどろしたものがあったのかなと深読みをしてしまいました。
 
 第3者が本人の印象を語るのを聞いている中で強く感じたのは、「自分のものさしでしか体験することはできない」ということです。
 岡村監督が「チャネラー」という言葉を使っていらっしゃいました(それもとても新鮮な響きでした)が、自分のフィルターをまったくの透明にすることはできないのではないかと思います。
 私自身、人の心の中を覗く仕事もしています。
 その中で「今、私自身が気になっていること」が色濃く投影されることがあります。
 そうならないように情報を伝えようと心がけています。
 しかし情報を伝えるだけなら私でなくてもよいわけで、その先を進んでいく部分については、私の付加価値を付け加えられればとも思っています。
 難しいですけど、個人の体験が別の人と絡み合って新たな記憶を創造することや、それをまた紐解くことによって個人の体験が浮き彫りになっていく様子が個人的には非常に興味深かったです。
 (PARC上映講座にて、leelooさんから。)
 
 *制作者から
 岡村がテレビドキュメンタリーの時間の呪縛からの解放を強く意識した最初の長編自主制作作品です。
 溝部さんの存在を強く感じていただけるのは、うれしい限り。
 溝部さんは数ある岡村作品の、最多登場人物なのです。
 「ラティーナ」の連載で溝部さんのことも、と考えていたのですが、終わっちゃいました。
 いずれ別ワクで、と考えています。
 
 
 「ギアナ高地の伝言 橋本梧郎南米博物誌」
 
 先日観たドキュメンタリの中に、植物学者・橋本梧郎さんを撮ったものが2本あった。
 1本は彼のサンパウロでの活動をテレビ向けに紹介した作品、もう一本は90歳を超えた橋本さんが念願のギアア高地を訪れたときの旅行記録。
 これらの作品、特に後者を観たとき、どう感じたらいいのか分からなかった。映画の中に、橋本さんが故郷・静岡県の大学から名誉博士号を受け、そこで講演をする場面がある。
 しかし、観客の学生達は講演の途中でぱらぱらと退出してしまう。
 この場面が、今、象徴的に思える。
 
 後日、近所を散歩しているときに、この映画のことを思い出した。
 わたしの住んでいる天王台という場所は、我孫子駅で分岐した常磐線(取手・日立方面)と成田線(成田方面)の間の中州地帯だ。
 常磐線・天王台駅のほうが便がいいので、普段はそちらしか使わない。
 しかし、成田線の東我孫子駅を越えた先はなかなか面白いらしいというのは聞いて知っていた。
 この日の散歩は、東我孫子の駅向こうを歩いた。
 ひなびた感じの町並みをさらに進んでいくと、ジャングルのような雑木林があった。
 15~20cmくらいの蜘蛛がいて、名前を知らない多くの植物が密生していた。
 栗を拾っている人たちがいて、奥にはわらびも生えていると教えてくれた。
 また、その先を行くと蛍を育てている公園があることも知った。
 わくわくするような体験だった。
 植物観察をしながらギアナ高地を旅した橋本さんの興奮は、こういうものだったのかもしれないと思った。
 深さや規模は全然違えども。
 
 あの映画には彼の内的な喜びが映し出されていた。
 しかし、それを感受することの難しさよ。
 また、そういった価値・すごさを表現することの困難さよ。
 例えば、講演会で橋本さんが感じていたであろう孤独、それを見て取れる・想像できる人がどれだけいるのだろう。
 彼のしてきたことのすごさ、また、そこにある喜びの伝達のし難さは、それが目に見えないというだけではなく、経験しないと分からない類のことだからかもしれない。
 
 その後、小阪修平さんによる著作を読んでいて、再び橋本さんのことを考えた。
 それは「勉強」(知ること)の輝き、という言葉が出てきたからだった。
 小阪さんは全共闘世代の人で、予備校教師等をしながらずっと時代の問題を考えてきた。
 彼は、自分が「つかまれて」しまった全共闘世代の体験を解きほぐそうとした。
 『現代社会のゆくえ』の中で彼は現代社会を市民社会として捉え、哲学を用いながら、全共闘の時代から80年代・90年代と社会がどのように移り変わっているか、を描いている。
 その現代社会の中で常に問題になる場として彼は教育を描く。
 彼の言葉を借りれば、「学校は社会にとって必要な装置なのだが、しかしたえず難しいもんだいをもたらすような、すっきりしないしんどい場所である」。
 なぜそこで「勉強」の輝きという言葉が出てくるかというと、考えることは本来楽しいことであるということを語るためだ。
 しかし、このような「勉強」の輝きが失われ、また、学校という空間が、市民社会の「矛盾」が集約する場所であるため、学校は行かなければならないが、多くの人にとって抑圧的な場所となった、と彼は言う。
 もちろん、その個々人に対する表れ方は違うし、全ての人にとっての学校がそういうものだということでもないのだけれど。
 多分、社会全体の流れ、その中での学校の体制・あり様、そして個々人の感受の仕方の関係の中で、一人ひとりの体験は変ってくる。
 そこで、橋本さんに話を戻せば、彼は「知る」たのしみを突き詰めていった人だ。
 年を取っても、その知識欲は衰えを知らず、ギアナ高地への旅行でもほかの同行者がへばっている中、痛い腰を抱えて植物観察に歩き回った。
 そういう人はいつの時代にも稀有な存在だろう。
 しかし、そういう人はいて、そこから勇気をもらうことはできるんだなと思う。
 (大森薫さんのオンライン日記「知ることの、楽しさ」の項より)
 
 *制作者から
 天王台の雑木林、そそりますねー。
 死体遺棄は、是非そのあたりで。
 ある作品についての捉え方、評価が、本人の変化によって変わり得るということの貴重な証言です。
 橋本梧郎シリーズ、次回作をどうぞお楽しみに!
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