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     文化・芸術・スポーツ関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
音楽家: 島田 正市さん

音楽家: 島田 正市さん (2003/04/11)
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氏名島田 正市
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業音楽家
生年月日1936年
出身地埼玉県
渡伯年月日1957年 さんとす丸


2003年2月

※ ブラジルにはどうして来られたのですか?

 第2次世界大戦で、戦争孤児になりまして、養護施設からブラジルに行きたい4人が一緒に来たわけです。ブラジルに来て50年になります。当時は日本でも食べるものもなかったのでので、私たちのおった養護施設の園長が、日本にいるよりもブラジルに行かせた方がいろんな面で幸せじゃないかということで、勧めたし、僕も16歳だったんですけど、外国に行ってみたいなという気持ちもありました。割り合い簡単な気持ちできました。ブラジルに着ましても、どこにいくのかということも分からないで、ただ、総領事と船長さんが船長室でお渡ししますよっていって、引受人に引き合わされたわけです。子供だったしみんな人任せでした。

※ どういうお仕事についたのですか?

呼び寄せ人が苗木生産所だったんです。例えば、みかんの木を接木しますよね。そういうことをやったわけです。4年半やりました。ちょっと僕らは騙されたような形になったわけです。三親関係ということで特別な関係で入ったからね。これはダメだというみきりをつけて、4年半でサンパウロに出てきました。しかも初めて汽車に乗って、何も知らないで来たんです。4年半ブラジルにいたといってもほとんど何もしらなかったので大変なことでした。でも友人やハワイアンギターをやられている知り合いの方がいて助けてもらいました。
田舎にいたときから、音楽活動はしていました。

※ 日本でも音楽をやっていたのですか?

アコーディオンを引いていたんです。当時はテレビがないからラジオ東京が一番大きかったんです。ラジオ東京に2回ばかり出演したし、演奏したところで一番大きいかったのは、明治大の記念講堂でした。その頃13歳でした、そのときにに「カスバの女」をよく歌っている江藤くにえという歌手、ビクターの児童合唱団、そして一番最後に明大のマンドリンクラブを古賀政雄が指揮してやったわけです。その舞台が一番大きかったわけです。

※ ご両親がやっぱり音楽を好きだったんですか?

 いや、自分で好きだったの。焼け跡からハーモニカを拾って吹いて、小説の主人公みたいにされてサー。そんなこともあったよ。アコーディオンからハーモニカをやっていました。ブラジルでは一番古て大きいバウルーっていうところのノド自慢でやったのが最初でした。そこで子供達の伴奏で舞台にたったら、なんか知んないけどみんながビス(2回)、ビス(2回)っていうんです。そのときはビスっていうのが分からなくてね。ノド自慢の伴奏に行ったのに演奏しろって言われたのは初めてでした。そのときにルンバのマリネラをやったんです。それから、奥地に島田っていう名前がひろがちゃってね。ラジオ放送局からお声がかかって演奏したこともありました。
 サンパウロきたら、サンパウロの放送局に挨拶に行こうってんで行くと、司会者の方も島田さんのことは聞いておりますっていうんです。で、今週からひとつやってくださいっていわれたんです。だから仕事につくよりも音楽の方が早かったんです。で、ラジオ・クルツーラっていう放送局で公開録音の伴奏を頼まれて毎週ずっとやるようになったんです。ところが僕は音楽で身を立てようなんていうのは嫌だったの。日本から来たときに、音楽は趣味としてやるからということで、来させてもらってたんです。日本に帰ったら、かんべいちろうが歌った、僕の作った「恋のバイバイ」が日本ポリドールから出たりして、僕の親代わりが一生懸命売って歩くわけよね。おまえをブラジルにやるんじゃなかったなんて言っていましたよね。サンパウロではオーケストラも作りました。

※ その後、お仕事は。

 仕事というとクラブしかないわけですよね。だからそこでずっと演奏していました。結局この仕事も20何年つづいたんだよね。ブラジルに来て、音楽で生活するなんて並大抵のことじゃないよ。でもどこへいっても給料がいらないうくらいだったよね。というのはお客さんの好きな曲を覚えていたから、チップだけでも十分稼ぎがあったから。またいい時代だったんと思います。
仕事がなくなるとみんな訪ねてくるんだ。外人のミュージシャンもそうよ。その頃のバンドマンは本当にいいお金をもらっていました。行き帰り、僕はタクシーだもんね。いい時代だったんだろうと思います。

※ サンパウロきたときは20歳くらいだったんですか?

 そうです。リオで仕事で10日間行ったの。夜の11時から11時半まで演奏して終り。この頃、ハワイからきたことにされちゃって、ポルトガル語も喋っちゃいけないなんていわれてね。仕事がないんだから後はコパカバーナをブラブラ歩いたりしてました。

※ その頃は若いし、女性関係もいろいろあったんじゃないですか?

 そうですね。あの頃はみんなさっぱりしていて、人にあったりしても、お近づきのしるしに、じゃあそこで一杯っていうじゃなくて、じゃあ女郎屋へっていうような感じでした。大らかな時代でしたね。
仕事にあぶれる、っていうことはなかったです。青柳(当時有名な料亭)なんかもバンドを入れたことがなかったの入れたりしてね。世界中がアメリカ文化の続きで、酒飲んで踊ったり、演奏をきいたりして、そんな感じだったから、バンドの仕事はありました。

※ お話を聞いていると本当に楽しい時代だったんですね。

 確かに、今のように深刻な社会じゃなくて、もっとおおらかだったですよ。夜なんかでもバンドマンどうしでアベーダ・サン・ジョアン(セントロ地区にある通り。夜はあまり治安がよくない)なんかを歩いて帰ってきても危ないことはなかったし。

※ バンドはいつまで続けたんですか?

 50になる前にやめました。60年代の途中あたりから作曲やっていたこともありまして、夜のバンド以外にショウとか日本から来た人の伴奏、若原一郎あたりからずーっとはじまったんです。最後には橋幸男や小林旭、鶴田浩治、なんかもやりました。当時いいお金になりましたね。練習だってただじゃないし。そうするとだんだんミュージシャンたちも頼りにしてくるんですね。同じ仕事をしているから、みんな仲良くっていう気持ちがありましたから。
伴順三郎なんかも僕が一人で演奏しました。森繁なんか僕のレコードもらってくれんかって言ってこんなにLPをもってきたよ。だから、伴順なんかハワイに行かんかって言ってくれたんだけど、永住権がでなかったんです。ハワイだったら、日本に近いし、いいなって思っていたんですが。伴順は島田、島田ってよんでくれて、お父さんみたいな感じでした。本人を知ってからは映画の中で笑わしても、面白いと思わなくなちゃった。

※ バンドマンの後はどういう仕事をされたのですか?

 それからカラオケの店を持ったんですよ。お金がなかったのに銀行から借りてね。

※ でもバンドマン時代にお金は貯めてなかったのですか?

 そういうのはすぐ使ちゃうからね。ほとんど残っていなかったね。カラオケの借金を払い終わって、流行っていたんだけど、嫌になってやめちゃったんです。というのは僕らはバンド時代に女の人のがいてお酒を飲むところで働いていたでしょ。カラオケの店がばからしくなちゃって、例えばウイスキーは高くうれないし、いろんなことがあってね。
 
※ カラオケの道に入り始めたのはその頃からですか?

 ずっとです。もう、やっぱり僕らはバンドマンだから、生バンドで生の音楽がいいんだけども、やっぱり時代の波にはかなわないよね。だからカラオケもやり始めたんです。随分前から、音楽やっている日本人はいたんだけどずーっと音楽だけやっているのは僕だけ。

※ 僕なんかの印象だと島田さんはどっちかというと、カラオケの大御所って言う感じがするんですが。

今はそんな感じでみんなに思われていますね。ウニオン・パウリスタ・カラオケっていうカラオケ協会の副会長なんかもやっていますし、オールブラジルのアブラッキっていうところの副会長もやっていますからそんな関係からじゃないでしょうか。カラオケっていうといつも顔を出さないといけないようなことになっちゃたりそういうことですね。
もう約3年になるんですけど、頭を切ったんですよ。脳腫瘍があったんです。その当時は、島田は、もうおしまい、助かってもカタワになるかって言われていたのですが、手術したのがよくて眼鏡かけていたのがいらなくなっちゃって、すごく元気になったんです。そのとき僕も病室で寝ていて、俺達はなんてくだらない、たかが音楽でっていう気持ちをもちましたよね。やっぱり医学っていうものは偉大なものだなって思いました。それから、できることなら、何かいろんなことでお手伝いしようっていう気持ちで子供の園の仕事とか、病院などで慈善で音楽やったりしています。

※ 今はどういうことをやっているのですか?

 今はほとんど生徒の授業をやっているだけです。生徒を何十年も教えきましたから門弟が何千人もいます。うちの協会の本部は横浜にあるんですが、全国決勝大会というのがあって、年に一人連れて行っていて、今年も連れていきます。
 それと作曲、曲でいえば、恋のバイバイなんかブラジルで吹き込んで、リオでヒットチャート、2週間2番だったこともあります。だから今でも、昔のことを知ってくれてる音楽仲の間では、マエストロ(指揮者、先生)・島田って呼んでくれます。結果として何十年も教えて門弟が多いことと作曲活動をやってきました。
 曲は何千曲って知っていました。今はだめですけどね。

※ ブラジルはカラオケが盛んですが、レベル的にはどんなものですか?

日本に生徒を連れていったらみんなびっくりするんですよ。どうして日本語も分からない人がこんなに感じがでるんだというんです。日本の人はストレス解消みたいな感じでカラオケで歌うでしょう。ここの人は違うの。はじまったら真剣なの。それだからうまくなるのは確かにそうよ。

※ カラオケの影響は何かありますか。

 そうですね。外人の中にも歌う人もいますが、やっぱり日本びいきですよ。今の70、80の人がこんなんだったら10年早くやっていればよかったとか、そんな人ばかりですよ。だから、それこそ先週の土曜日も5時半におきて6時半には会場に行ったんですが、そしたらどんどん年寄りがくるんだものね。あの人たちは5時くらいに起きてくるよ。カラオケのおかげだと思うんですが、女の人たちも昔は着たことのない赤っぽいはでな色なんかも平気で着るようになった。金曜日になったら、美容院に行って、きれいな靴を履いてくるとか全然かわちゃっています。中には、姑さんと嫁さんの関係があんまりうまくなかったのが、よくなったりね。

※ カラオケはどうして流行ったのでしょうか?

 昔は、ギターひとつでも何かなかったら歌を歌えなかったはず、それこそただ歌うだけだったら、わさびのない刺身を食っているようなもんだよね。それを結局カラオケっていうものはすぐに音楽がでてきて、それにあわして歌う。身近なものになった。これが一番の理由だと思います。日本と違って、こっちははじまったら真剣勝負、審査員が自分を落としだとか、やれなんだとか、ひどいのは殺してやるなんて電話までくるんだから。僕は言われたことないけどね、そんな電話をもらった審査員もいます。相手は真剣なの。だから審査員も年に3,4回セミナーをやるの。みんなが毎月勉強会を開いています。
今の人の喜びは、まず、舞台に出て歌う喜び、2番までではものたりない、中には3番まで歌って物足りないないなんていうのもいるからね。歌が終わって、審査員の採点表をもらって、あの審査員が落としただとか、良かっただとか、話し合うのが、もうひとつの楽しみなんで、審査員には気にしないようにって言っています。

※ 日本の若者に何かいいたいことは?

 日本の若者はポップスが盛んで演歌がどうしようもないんですけど。できることなら日本の国がある限り、演歌を少しは歌って欲しいですね。
 
※ 今後はどういうことをやっていきたいですか?

 僕は自分自身ではできるだけ人のためにできることはなんでも差し上げたいと思っています。

※ ブラジルに来てどうでしたか?

 ブラジルも不景気になってきたし、僕はどうも悪いとこ悪いとこ歩いてきた気がするって、そういう気を起こしてきたんですが、60過ぎてからはブラジルに来てよかったと思っています。


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