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     文化・芸術・スポーツ関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
音楽家: 広瀬 秀雄さん

音楽家: 広瀬 秀雄さん (2003/04/11)
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氏名広瀬 秀雄
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業音楽家
生年月日1943年4月30日(おうし座、O型)
出身地神奈川県 横浜市
渡伯年月日1967年


2002年3月

※ブラジルにはどうして来られたのですか?

 兄が60年頃にブラジルに来ていたんです。ワイシャツ屋をアウグスタ通りでやっていて、その店をやらないかという話が早稲田の学生時代にあったんです。それは面白そうだ、ということで、呼び寄せ移民という形で来ました。ビザ自体は商業ビザというものでした。俺は文学部だったけど、大学卒業という資格があったら永住権をもらえた時代だったんです。渡航費はただで、ブラジルに来たときに130ドルくらいしかなかったけれど、なんてことなかった。正確にいうと横浜を出発したときには70ドルしかなかったです。途中マージャンとかやって増えたんですね。

※お兄さんは小説家の醍醐さんですよね。

そうです。その頃、彼はまだバンドマンでもあった時代で、小説で身を立てようと思っていた頃だから店は辞めるつもりだったの。やる気があったら俺に任せるという感じだったんです。

※大学はちゃんと卒業しているんですよね。

してる、してる。怪しい5年間だったけれど。

※大学出てこれをやろうということはなかったんですか?

高校か大学1年のときに、もう兄貴が来ていてブラジルに来る話は出ていたの。あんまり就職とは関係のない演劇科を選んだ時点で外国に出るという気があった。というのは東京学教育大の経済学専攻にも受かっていて、あの頃、就職しようと思えば好きなところに就職できるようなとこだったから。

※こちらではどういう仕事をしていたんですか?

最初はワイシャツ屋を1年くらいやったんだけど、ポルトガル語で人を使わなきゃいけなかったから凄く疲れた。兄貴に、言葉なんかやんなくてもすぐ覚えるよって、言われて、何も勉強してこなかったから最初から大変だった。店はそこそこはいっていたけどね、これじゃ本当の意味で儲からないと思って、言葉のいらない仕事を探して、兄貴達と一緒に「青柳」で仕事したんです。

※青柳っていうのは良く聞きますが、どんな店だったんですか?

 料亭とナイトクラブをくっつけたようなところだよ。そのダンスフロアーに3,4人のバンドがいて、地方の日系人が来て、一番高くて、ちゃんと遊べるところだった。そこで最初はバンドでベースを弾いて、その次にピアノをやった。ブラジルでは、音楽関係の仕事をする場合、ちゃんと音楽家手帳というのが必要なの。ピアノの音楽家手帳をとれば、どんな楽器をやってもいいって言われていたから、じゃあそれだったら最初からピアノを勉強して手帳をとろうと思ったんです。でも、20年以上会費を払っていない。本当はちゃんと使うには払わなければいけないんだけど(はははは)。

※言葉も喋れないのに簡単に取れたんですか?

音楽用語っていうのは案外英語に似ているの。でそうなところを一生懸命ポルトガル語も含めて勉強したし、しかも知り合いの日本人が試験官をやっていたので、本当に言葉がわからないときのために一応通訳を頼んでいたよね。でもそんな必要はなかったよ。それでも結構落ちる人が多いんだよ。ブラジル人は、実技は強いけど理論は弱いからね。それで、3,4年仕事していたかな。

※バンド時代は今の感覚でどれくらい稼いでいたのですか?

ピアニストだったら、今の2500レアルから3500レアルくらいかな。僕は日伯毎日新聞にその後働いたんだけど、最後にピアニストで4、5日働いたお金で、日伯の一ヶ月の給料を稼いだね。つまり4日働けば、なにもしなければ一人者で一ヶ月暮らせた額だった。

※それじゃー、随分いい生活をしていたんですね。

 テナーサックスを吹いていた人なんか毎週ズボンや服をあつらえていたよ。それだけ余裕あったということだよね

※その後はどういう生活をしていたのですか?

72、73年頃、言葉の問題もある程度なくなったろうということで、もうそろそろ昼間の仕事をしようと思って、新聞をみていたら、編集員募集っていう記事があって、住所が隣のビルじゃない、これはいいやっていうことですぐ面接にいったんだ。給料安いし、1年も働いていなかったと思うけど、何かないかなーと思っていたら、リオの領事館で人を探していたんです。で、領事館の文化班に入ったです。入った一番大きい理由は、その頃、夏は仕事が半日で良かったの。これはいいやって思って受けに行ったら受かったんです。給料は、リオでまあまあのアパート借りて一人で生活するには十分だったよね。で5年間仕事した。リオも気に入ったんだけどやっぱり食事がちょっと僕に合わないのね。その頃、たぶんリオに住んでいる日本人は全員そうだろうけどやっぱり日本食に飢餓感があったと思う。

※あんまりリオに行ったことはないんですが、安くておいしいレストランというのはないような気がしますね。

高くておいしいレストランはある。その代わりメチャンコ高い。サンパウロみたいにほどほどの値段でおいしいというのは少ないね。でも最低辺になると変らないと思う。
 領事館勤めというのははっきりいってぬるま湯なの。というのは、20代30代のやる気にある奴にはちょっと物足りないのね。といっても辞めて苦労するのもちょっと面倒臭いっていうのもあるわけ。だから、普通、領事館勤めの人は長くなる。というのは安定していて仕事はきつくないから。だから、よっぽど課外活動をしていない限りこんなんでいいかなって思うことがある。課外活動というのは一人ではできないんだよね。その人材がリオは少ない。例えばもし、俺がサンパウロで働いていたら、ずっと働いていたかもしれない。なぜかというと音楽仲間もいるし、文学仲間もいるし。結局は、燃焼しきれなかったんだよね。そろそろ違うことをやってもいいんじゃないかなって、そういう気になる仕事だよね。領事館というところは、いる人は多分20年、30年っていちゃうだろうけど、いない人は多分5,6年で大概でちゃう。俺は5年いたんだけど、そしたら偉いっていわれたよ。居心地は悪くなかったし、給料もいかさず、殺さずっていう感じだしね。
 その後、サンパウロでコンデンサーの代理店やんないかということで、そのときは朝の5時に起きて車の免許もとってまじめに仕事をしたよ。代理店の展望というのはよかったけど、基本的に電気関係というのは好きじゃない。だから喜んで勉強する気になれないわけ。もしかしたら代理店が大きくなってお金持ちになったかもしれないけど・・・。もしこの仕事でお金がもうかったとしても損したと思うようなタイプの仕事だな、と早いうちにと感じたし、自己犠牲をしなければならなかったから辞めたよ。やっぱりちょっと給料が安くても、自分が向いているところで、やっても悔いが無いような仕事でなかったら後であの時間損したなと思う。それはもう確実にそうだと思う。誰でもいろんな適正があるんだから早く気がついたら辞めた方が絶対いい。結局、1,2年やったのかな。
 リオにいたとき書を習っていたの。それでサンパウロにちょっと来たとき、仲間と3人くらいで展覧会をやったんだ。そのとき、フランスから来た人が俺のを気に入って買ってくれたわけ、あっ、これは書道でくっていけるかもしれないと思った。実際は、まだ段も持っていなくて2級だとか3級というそういう時代だったんだけどね。それで先生を頼って日本に行って、修行して書道家として身をたてようと思ったの。そしたら、もたもたいるうちに十二指潰瘍炎になってしまい、医者にしばらくはきついことは辞めたほうがいいといわれて、とりあえずは計画を中止したの。ぶらぶらしているうちに日伯新聞の社長が「オーパ」という日本語の雑誌をやらないかということになった。それでもまだ日本に行くつもりでいたから1年間だけ引き受けるということにしたの。1年たてば長旅、修行も全部できる体調になると思ったからね。やりだしたら割合うまくいって代わりの人がいなくてずるずる続けて結局「オーパ」の編集長を7、8年やったのかな。
 これではいつまでやっても辞められないということで強引にやめちゃった。

※辞めるのには結構勇気がいりますよね。

 俺にとってまず辞めることが大切だったの。あの頃は何か書きたかった。俺の出発点はいつもそうなんだけど、とにかく食えちゃうんだよね。そうすると、そこから上に行くという意欲が俺にはないのね。だからどうするかというと俺は辞めるの。一番簡単な例がバンドの時代。新聞社に入ると5分の1から8分の1まで下がるわけ。でもそれで一生懸命やると最終的にはまたもとの筋に戻る。オーパだって最初は給料がいいわけではなかった。でもとりあえずは食えたから。
俺にとって90年代は失われた90年代であって、その間仕事らしい仕事は何一つやっていない。
基本的に博打しかやっていない。あるとき博打をやってたら、俺は何もできないな、って思った。というのは食えちゃうから。だから博打も遠ざけるようにして、ある日、ぷつってやめたの。辞めてどうやって食っていくかというと、友達に借金するとか絵を売るとか、それから小遣い稼ぎの仕事をやったりしていた。

※音楽関係の世界に戻ったきっかけは?

たまたまちょっと手伝った「オーパ」でいったのがバンドの取材だったの。テナーサックスを吹く人が一人たりなくて、僕が手伝ってあげますよって、いうことで吹き始めたの。そしたらやっぱり面白くて、20何年前の元に戻ったわけ。音楽って面白いや、って感じた。そのときは、まだ、音楽を食い物の種にするっていう意識はなかったの。むしろものを書いたりする気の方が多かったんだけど、ある人に占って見てもらうと、人にモノを教えるタイプよって言われたんだ。ちょうどその頃、人にちょっと音楽を教えてて非常にいいって言われたわけ。教えるなら音楽がいいっていうことで最近は音楽をどのようにして自分の生活に関わらせるかっていうことを考えている。
今はまだ音楽では食えないけど、例えばカラオケの審査なんかやたり、童謡とか唱歌を三世とか四世の子供達に教えたりしている。はっきりいって凄く貧しい。貧しいというのは、ものすごく子供に無理な伴奏で歌わしたり、あんまり童謡らしくなかったり、改善の余地があるということ。童謡や唱歌は存在価値があるわけよね。それが本当の意味でちゃんとしていない。こういうのを改善していけば次につながるという意識が出てくるし、カラオケなんかを審査していても歌い方が音楽本来とは違うんじゃないかというものもあるわけ。接触しているとそういうものがどんどん出てくるわけ。そして現実に自分でどんどん積極的に動いていけば、自然に金になって、音楽に関わっていく生活ができる、そういう感じね。

※では今どういう仕事をしているんですか?

今一番収入が多いのは音楽関係。例えば、アレンジをしたり、バンドで演奏したり、カラオケを審査したり。
昔は演奏して、ようするにプロの音楽家としてお金をもらうという意識だったけど今の意識はそうではなくて有料であれ無料であれ、音楽活動をしてその結果、周りの音楽環境がよくなっていけばいいっていう意識が強い。別に無理に弟子をとって誰々に教えたいというよりも、この人はここを直せばよくなるなという人に教えたい。
特に今はそう思うのだけど、日系人だけでなく日本人の音楽に対する考え方は狭いのよ。だから、偉そうに言えば、直していきたい。そうじゃないんだよって伝えたい。だからそれが結果として生活に結びつけば一番いい。だから昔と発想が逆になったね。昔はそんなことを考えなくて、いい給料をもらって音楽活動をやっていたけれど、今はそんなことを考えなくて指導者的になりたい。多分年齢もあるだろうね。

※日本の若い人に何かいいたいことはありますか?

 これは俺のたんなる印象だけど、一昔前は男のパワーが落ちて女のパワーが強くなって、力のあるいい女が出てきていたけど、最近、逆に男の方がいいのが出てきたような感じがする。
今の若い人といえば想像力が足りないね、でもそれが一番必要だと思う。ものごと何をするにも想像力なの。しっかりしていて、元気な男も女にも会っているけど一番欠けているのは想像力ね。外国に行っていろんなことをできるのは想像力がある奴ができる。それは俺たちの世代もそうだ。つまんない男や女は想像力がない。それをいかにして育てるかということを考えないと。僕達の時代はそんな奴が回りにたくさんいたの。だから想像力がいくらでも作れたけどね。

※将来の展望は?

 日系社会の音楽環境を少しでもよい方向に且つ活動的にしたいと思ってる。その他、以前からわずかづつしている事だけど、ブラジルの音楽をなるべく等身大のままで紹介していきたい。等身大という言葉はややわかり難いと思うけれども、拡大も縮小もしないという意味。具体的にいえば、トム・ジョビンのボサノバ紹介にしても「ボサノバの法王ジョビンの・・・」なんて大げさにせず、となりの家のトムおじさんがいつも弾いた音楽とか、コパカバーナのバーで女の子を口説いていた時、バンドがよく演奏していた音楽みたいな感覚でいわばブラジルで生活している人の有利さを出した紹介をしたい。それと同時に不当に低く評価されているミュージシャンや音楽なども正当と思われる位置で紹介するといった事をやりたい。

※もうブラジルに来て30年ですよね。ブラジルに来てよかったですか?

それはおそらくよかっただろう。というのは俺は日本でそんなに生活していないから。その答えというのは無理だと思う。だけど、ブラジルでの生活に満足しているかと言われたら、今までの活動に対しては満足している。
好きな俳句に「カンポサント(無縁仏)移民の果ては野菊なり」があるんだ。
ようするに人間というのはどんなに活躍しても最終的には無縁仏になって野菊だけでおしまいという覚悟がいるということ、移民というのはそのくらいの覚悟が必要ということです。


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