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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2006年7月号

2006年7月号 (2006/07/14) 四十日間の悪夢と神の奇跡

老ク連前副会長 山本茂
 その日、私は静岡県人会館で開催された、第十七回島田孫弟子のカラオケ大会に出場した。朝のカフェを飲んでから妻の京子と家を出て、午前十時に会場に着く。大勢の人たちが集まり頑張って歌っている。昨夜ぐっすり休んだので気持ちも爽快。エストラの私の出番は七十三番。お昼前に私の好きな古賀政男の「影を慕いて」を心を込めて唄った。今日のカラオケ大会はサンパウロ市を始め、各方面から七百五十人の歌手が出場する。しばらく皆の歌うのを聞いていたが、気分が優れなくなったので家に帰り、昼ご飯を食べて休んだ。
 急にトイレに行きたくなり、用を済ませて下を見ると便器が真っ赤に染まっている。昨日好きな苺を沢山食べたので赤い便が出たのか。驚いて妻を呼ぶと京子もびっくりして「貴方これは苺などではない、胃腸からの出血だ」という。
 直ぐに車を飛ばしてサンタクルース病院へ行き医者に診て貰う。「これは胃腸からの出血だから、手術をする必要がある」と言われ入院。下剤と一リットル以上の水を無理やり飲まされた。
 血液や心臓の検査をして、翌日手術をして貰う。四十分おきに出血が続き、出血多量で体内の血が失われるのを身に感じ、衰弱するばかりだ。最初の手術はうまくいき、三日して退院できるようになり、帰宅の用意をしていたら、前回のように出血が始まり、退院どころではなくなった。
 それから二回三回と手術のやり直し。全く大変だった。よく命があったと思う。この間の苦しみは筆舌には表せない。何十日か死線をさ迷い続けて悪夢の連続。三回の手術でUTI(集中治療室)を出たり入ったり。気の強い私もこの時ばかりはあの世へ行くのかと思った事が何度もあった。
 近代化した病院の様々な装置を体に付け、脈・呼吸・血圧などの数字を毎日眺めながら苦しみに耐え、介護士や看護婦の厄介になりながら一日一日を過ごす。全く生き地獄だった。現在の進んだ設備をもってしても、また進歩した医学を学んだ医者でも、どうすることも出来ない。神の力に頼るしかない。神に祈り、仏に祈る。しかし悪夢は続く。自分は生きているのか死んでいるのか、この世にいるのかあの世にいるのか分からない。
 三回目の手術後、兄・勇が天理教の「おさずけ」をしてくれた。妻の京子、娘の美智子、姪の信子の四人が居合わせた。祈りは進んだが私は全く意識がない。
 この時突然、天理教の教祖「中山みき」様が真っ赤なマントを着て天下ったのだ。
 UTI十六号室の三メートル半×四メートルの部屋が教祖親様のマントで真っ赤に覆われた。この親様の胸元より二つの白銀のボタンがスッスッと私の病床に降りてきて、手術の切り口に止まった。すると、その輝くボタンの白銀の色が見る間に真っ赤に染まり、今度はスイスイと親様の着ておられる赤いマントの胸元に引き込まれて行く。
何と有難いことだ。
 私は狂気のようになり「今この病床に神様先祖様が来られた。私は救われた」と大声でわめいた。「神様はおられる。私を救ってくださった。何と有難いことだ」私は無意識に何度も何度もわめいた。と後日妻の京子は私に話してくれた。
 私はこれが現実なのか夢なのか分からない。しかし私の脳裏にはあの真っ赤なマント、二つの輝く白銀のボタン、それが私の胸の上で真っ赤に染まって親様の元へ消えて行く。その光景がはっきりと残り、今も眼を瞑ればあの有難い光景が再現出来る。本当に奇跡だ! 神様ありがとう! 
 今、私は元の元気な体に戻りつつあり、妻の愛に包まれ、大勢の友人の方々から心のこもった励ましを受けている。深く厚く毎日毎日感謝して生活しているのである。


老ク連風景

☆エレベーター事故だけど、怖いねぇ。まったく、人ごとじゃないよ。
 わしなんかも前に住んでいたアパートで三回もエレベーターに閉じ込められたよ。
 途中でガガーンと止まって、…だんだん心配になって、大きな声で「助けてー」って叫んだよ。
その時のエレベーターもシンドラーだったよ。
良く覚えているねぇ。会社名まで。
 「死んどらー」なんて、名が良くないって、女房が言っていたからさぁ。
 ところが今、住んでいるアパートのエレベーターはオッチスってんだよ。「落っちす」なんて、これも名前が良くないんだよなぁ。


抱腹絶倒 告別の儀

 寒さが厳しくなると何時も思い出す伯母の死に纏わる出来事、悲しい筈なのに漫談めいていささか不謹慎の諺りを免れない次第。
 漸く纏めて休暇が取れた娘の初訪日は寒中二月、私の郷里では一番寒い時期でした。
 それでも張り切って飛んで行った娘は親戚中から「本当に良い時に来た」と妙に大歓迎された。「丁度良かった、ブラジルの代理が来て全員揃ったから亡くなった伯母さんも喜ぶことでしょう」。
なんの事はない。昨夜亡くなった伯母の葬儀準備の真っ最中だったので
ある。娘には大伯母に当たり私は親戚中で「ブラジル」と呼ばれている。観光目的の予定を一時棚上げして娘は懸命に手伝ったそうです。母方の祖父は伊達と南部の境の出城最後の家老で、その長男は母の長兄で今度亡くなった伯母は、その連れ合いである。既に亡くなった伯父は長年、村長や市長を務めたので伯母の葬儀は後妻ながら盛大に行われた様子。
 通夜から葬儀、火葬、初七日と若さと達者な日本語で大いに役立っことができて面目を施した娘が、納骨の日に、とうとうポカをやったらしい。当日は前夜から降り続いた雪が三十センチ余りも積もり、納骨の行列の先頭は除雪作業隊が雪かきシャベル、竹箒を担いで
先行した。
「あれに大槌が加われば討ち入りじゃんか」と思った途端に笑上戸の虫が一斉に動き始めて止まらなくなってしまった。生まれて初めて見る尺余の積雪。一面の銀世界。しきりに降る雪。キャッホーと飛び上がりたい心境なのに、如何せん告別の最中なのである。
 墓前の除雪も済んだが納骨室の扉が開かない。押したり引っ張ったり罰当たりに蹴飛ばす奴もいた。誰かが水を掛けたらと言い出して水を掛けたら余計にガチガチ凍ってしまい娘の笑い虫は止まらない。
 「お湯を掛けたら」と庫裏から大やかんに、お湯を貰ってきて掛け、漸く扉が開いた。墓石にお酒を注ぐのは聞いたけど熱湯を、ぶっ掛けるとは前代未聞。ご先祖様もオチオチ眠っていられない。お腹の皮は、すっかり涙じれてしまってどう仕様もなかったと。
 そら開いたぞ。花だ。線香だ。お供え物だ。大わらわで、お焼香は長男夫婦から順に始まった。
 亡くなった伯母は先妻二人とも体が弱くて子供が一人も無くて死んだ後、健康第一で嫁いで来て九人も生んだ。
 「オーイ、昇の番だよ。早く焼香しなさい。昇は何処にいるかー」見回した一同が見たのは、墓地の外れに一人ひっそりと
亡母の骨箱を抱いて降りしきる雪を被って泣いている昇だった。子供達が次々に巣立って行った後、末っ子の昇だけが家に残った。あの、だだっ広い家屋敷で母親の側に暮らし、最後を看取ったのも昇ではなかったのか。
 「花を退けろ。タンゴを下げろ」と再び大騒ぎをして納骨を終えた時は娘の笑い虫は、私の妹にどやされても鎮まらなくなっていた。
 帰って来ての話に、私も思わず笑ったが、従兄弟の心情を思いやって涙がこぼれた。この伯母には親戚、知人の間で有名な武勇伝が沢山あるけれども、いずれ後ほど。


同姓のよしみ(其の二)

サンパウロ中央老壮会 纐纈蹟二(喜月)
 もう十年も前の話である。アチバイアの同姓の纐纈さんと初対面の時の話の内容は、或る老女の依頼を受けた辻村という女性がアチバイアの纐纈氏に相談を持ちかけた。岐阜県出身の纐纈某の事である。調べてみたが、皆目手掛かりが掴めず貴方も纐纈を名乗るもの同士として、骨を折って貰えないか、ということであった。
 問題の纐纈某の渡伯は大正十四年から昭和二年頃で、ノロエステ線地方に在住していたという。
 まずサンパウロの領事館に行き調べると、戦時中、バウルー領事館は火災で全ての資料を消失したので、昭和初期のことは調べる方法無しであった。
 そして岐阜県人会に問い合わせても分らず、サントス港の移民上陸の記録にも見つからない。ブラスの移民収容所でも当時の記録を調べたが、徒労だったと言うのである。
 一度、辻村さんに会って、話を聞いて貰いたい。私は出来る限り手を尽くしたが、どうにもならぬ。という事で、辻村さんに会い、事情を聞くと、頼んだ老女は纐纈某と結婚していたという。新婚一年ほどで夫が急死してしまった。その後、縁があって、再婚し、子宝に恵まれ、孫たちに囲まれて、幸福な生活であったが、最近夫が逝去した。それでも初婚の夫の事を忘却せず、夫の没後、ひそかに先夫の供養をしたいと思い立った。それを知人の辻村さんに話して、先夫の出身地を確かめ、日本の戸籍はどうなっているか知りたいという。
 老女の願いを叶えてやりたいと同姓のアチバイアの纐纈さんに頼み込んだのである。
 何しろ六十何年も過去の事であるが、幸にして老女の記憶に、「俺は岐阜県の和知村の人間だ」と口癖のように故人が言っていた事が思い出された。
 私は岐阜県加茂郡八百津町出身である。戦後、長兄が八百津町長の頃、隣村和知が合併したのである。手がかりが見つかった。
 辻村さんは何回も岐阜県庁に手紙を書き送ったというが回答無しであった。岐阜の県庁は移民に関する扱いは農務課に担当係がいて、県庁御中では用をなさなかったらしい。
 私の生家の甥が役場の管理職だったので、手紙を出すと短い手紙で、病弱の為、役職を辞して療養中にて、自身赴いて和知役場出張所で調べることも出来ず要請にこたえることが出来ずに残念と書いてあった。
 辻村さんに所在地とその他を指示して八百津役場に連絡した。突然、ブラジルからしかも関係の無い他人からの要請では、戸籍謄本は出せない。もし、纐纈某の生家の戸主が承認すれば…、という事で、故人の甥なる人から謄本に手紙が添えられて送付されてきた。
 バウルーの領事館より死亡届があり、眷族や祖先の供養は怠なくしていると記してあったそうである。私も僅かながら協力できたことに満足した。
 一面識も無い老女の執念が実を結んだのである。纐纈某は勇吉が本名で、六十何年以前に鬼籍に入っていた同郷の先輩移民である。女の一念というは恐ろしいと、浪曲の文句の一節を思い出した。これも同姓のよしみであったと感を深くしたのである。


日記をつけよう ②

サンパウロ中央老壮会 鈴木紀男
 前回の日記をつけようで、「日記」とかしこまると、三日坊主に終ってしまったりするから、「雑記帳」として、それに一日の覚書、新聞・雑誌からのメモ、誰と会った、何を話した等何でも書き込む習慣をつけたらどうだろうかと提案しました。雑記であるから何を書いても構わないという自由さがあるし、日付は横にちょこっと付ければいいから、書けなかった日があっても空白を開ける必要はないでしょうからうしろめたさを感じないで済む全く自由気ままであるところがいい。
 書くことは楽しいことなのです。自分が書きたいと思ったことが文字として並んでいくのを見るのはとても楽しいことです。俳句や短歌や詩を作って、それが新聞や雑誌に載った時のワクワクした感じはまさに創作の楽しみだと思います。
 雑記としての日記でもたまっていくと自然にその喜びが感じられるようになるものです。
 女性は一般に今日、自分に起こったこと、または人から聞いたことを誰かに話さないとどうも気持がおさまらないようです。疲れて帰ってきたマリードが食卓につくと同時に奥様のニュースの時間がはじまるというわけです。
 それでもまだ誰かと話したくて、三日に一度は昔なら井戸ばた会議、今では女性同士の長電話ということになるのでしょうか。
 そんなこんなで世間にはいろいろな話が満ち満ちています。人から聞いたこと、人に話したこと、TV、新聞、雑誌で見たこと家族に起こったことなどを一日にちょっと時間を撮って文章に書く習慣をつけることは自分を落ち着かせ進歩させる元になると思います。


古い文芸帳から

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 古い時代からのコロニアの俳句関係、文芸関係の書類など、長年かかって集めた書斎を整理していたら、十七、八歳の頃の、古くなって文字が消えかけた「文芸帳」と題したのが出てきた。
 十七、八歳と言えば、半世紀も前のことで、稚拙な字で書いた短歌や詩のごときものが並んでいる。

 目に見ゆるかぎりの丘の野火煙たそがれ刻は灰降りそそぐ
 畑いくつ越えてとびきし山焼きの灰は木の葉のかたちくずさず
 山伐りし斧の疲れに掌が震え今宵書く文字いとつたなかり
 コーヒーの茂葉にもぐり腹ばいて啄木の歌土に書く午後
 山焼いていくとせ経ちし畑土に椰子の実埋り鍬に応うる
 三代の生きのいのちの米盛りて木目浮き出し五合桝かな

 蒲の穂の綿を集めて
 山小屋の棟木に吊す
 白繭のねぐらの内の
 炊き立ての飯の粒なる

 玉子われ孵り出でたる
 蝶のごとみどりの小鳥
 日本の人は名づけて
 蜂鳥とはちすずめとも
 この国の人は呼ぶなり
 ページャ・フロール

 人の世の春は哀しく
 ひたむきに恋を求めて
 求め得ぬ恋になげくに
 かの鳥の春は楽しや
 もろもろの花をたずねて
 花びらに脣づけ暮らす

 本好きであった母が渡伯の折り、移民の荷の柳行李の底に秘めてきた婦人雑誌に載っていた短歌を、文字を習うために書き写し、それを暗記して憶えた歌が手本であり、師であった。
 父は俳句を作っていたが歌は作らず、他に仲間も読む新聞も書籍も無いままに作ったこれらの何十首に及ぶ短歌は何処にも発表する所もなく、半世紀以上も埃をかぶって、何回もの転耕にも失せずに残っていたのだった。
 ぼく自身、俳句歴は七十年にもなるが、短歌のこと、詩の良し悪しは解らず、俳句の事のみに関わってきて、写生文は書いてきたが、他の文芸に関わる暇も意欲も無くなっている。
 そういう中で昔のこの短歌や詩のごとき作品を読むと、稚拙な言葉のうちに幼少の頃の情熱が、米寿となった今の涸れそうな詞藻の中に無い瑞々しいものがあるように思える。


思い出に残る歌い手たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑩ 津村謙
 津村謙(本名、松原正)の名前は、彼がコロンビア・レコードからキング・レコードに移転した際に、「愛染かつら」にあやかり、津村は主人公の医師・津村浩三の苗字、謙は主演した上原謙の名前からとったものだという。歌手の世界では変人と評されていたほど無口で、控え目で大人しく目立たない性格だった。しかし、テレビ時代にふさわしく仲々端正な顔立ちで、その高音の美声はビロードの声と称されたように、非常に魅力的であった。
 昭和二十六年の「上海帰りのリル」(東条寿三郎作詞、渡久地政信作曲)は引揚歌謡とも呼ばれ、当時のラジオ番組にあった"尋ね人の時間、で引揚や戦災などで行方の解らぬ知人とか親戚を探していた、あの時代の人々の心を打つ懐かしい曲であり、歌は大ヒットした。今でもなつメロ・カラオケの名曲の一つに数えられているほどである。リルの身元は戦前のアメリカ映画で使われた「上海リル」というブルースだという。「リルリル」というリフレインの部分などは演芸もののギャグにもよく使われたものだが、この部分の津村の声の張りのある美しさは類がない。また、リルブームはその後しばらく続き、翌年には津村自身も「リルを探してくれないか」を歌っている。
 ところで、この昭和二十六年はラジオの民間放送が開始された年であり、それまではNHK一本きりだったのが、ニュース、ドラマ、クラシック、流行歌、落語、漫才などの番組は飛躍的に増え、聴取者にとって選択肢は広がり、流行歌もあっという間に大衆娯楽の中心媒体とあると同時に、新たなスターを生み出していく。津村の活躍は戦後になってからだが、昭和二十一年に菊池章子と二人で「東京パソドブル」をレコーディングしており、二十三年の「流れの旅路」(吉川静夫作詞、上原げんと作曲)あたりで名前が知れるようになった。「赤いマフラ…」(二十六年、高橋掬太郎作詞、江口夜詩作曲)はそれにかなりよく似た感じの曲である。このほか、二十六年には格調の高い「東京の椿姫」(東条寿三郎作詞、渡久地政信作曲)、二十八年には名曲「待ちましょう」(矢野亮作詞、渡久地政信)を出したが、「待ちましょう」は歌唱力に自信のある者がよく挑戦する曲としても知られている。そして、二十九年になって「あなたと共に」(矢野亮作詞、吉田矢健治作曲)のヒット作にめぐり合う。同名の松竹映画(大庭秀雄監督、佐田啓二、岸恵子、菅佐原英一共演)の主題歌だが、〃あなたと共に行きましょう、恋の甘さと切なさを…〃と歌詞もいい。昔の歌は曲もさることながら、歌詞もイメージをふくらます名文句が少なくないようだ。思いつくままに並べてみても、〃みどりの風におくれ毛が、やさしくゆれた恋の夜…〃(三百六十五夜=西条八十)、〃なぜか忘れぬ人故に、涙かくして踊る夜は…〃(緑の地平線=佐藤惣之助)、〃花摘む野辺に陽は落ちて、みんなで肩をくみながら…〃(誰か故郷を想わざる=西条八十)、〃君に逢ううれしさの胸にふかく…〃(水色のワルツ=藤浦洸)、〃想いあふれて花摘めば白い指先入日がにじむ…〃(誰か夢なき=佐伯孝夫)等々、数えあげればきりがない。
 しかし、津村は昭和三十六年十一月に自宅で不慮の死を遂げるのである。
 享年三十八才。そして、「あなたと共に」「上海帰りのリル」「東京の椿姫」は、私もカラオケで愛唱してやまないのである。


昭和初期のコロノ生活

レジストロ春秋会 大岩和男
 過日、サンパウロ新聞に、加藤隆さんというお方が軍歌「戦友」の替歌「昭和初期のコロノ生活」というものを発表されました。その一節から六節までどれを読んでも身につまされる事ばかりで大変感動しました。僅か六歳余りの幼年期に父母兄姉に連れられて、ブラジルに来た私ですが、一緒にコーヒーもぎに連れて行かれた記憶がまざまざと蘇りました。朝暗いうちに無理矢理起されて、大勢のコロニアの人たちに混じってコーヒー園に連れて行かれ、そのため日中眠くなり、コーヒーの樹蔭に麻袋を敷いて寝かされました。
 それはコロニアの人たちと一緒に行かないと、広いコーヒー園で迷うからだという事をアメーバに罹って入院した事等と共に後年、母から聞かされました。しかしその時の注射液が私の臀部で化膿したのを治療するため、コーヒーの新葉を火に炙って日に何回となく貼り替えてくれた母の姿だけは、あらゆる事がおぼろげな私の記憶の中で、鮮明に残っています。
 その頃のことらしく、コロニアの人たちが総出で小川の水を堰き止めて魚取りをしたのを母の背に負われて見た記憶もおぼろに浮かんで来ました。
 ここはお国を何千里、離れて遠くブラジルに…。何回も読み返した歌詞はコピーし、先日の春秋会の例会の日にコーラス部の人たちに歌って頂きました。
 何と言っても、一節一節がお年より一人ひとりの胸に響く文言なのです。コーヒーもぎだけではなく、綿や米作りに精魂を傾けた人、ここレジストロでは特に茶園作りに、そしてそのお茶摘みに、心身共に艱難辛苦、堂々と努力して、今日を築き上げた方々です。この歌詞を見て、しかも自分の口で声を出して歌ったら、自然と過ぎし来し方が思い出されて、誰でも知らず知らずに感動するのではないでしょうか。
 次回の例会にはたくさんの歌詞のコピーを作って、春秋会の会員全員に歌の歌詞を知って頂こうと話し合っています。
(一)ここはお国を何千里
離れて遠くブラジルに
赤い夕日の沈むまで
今日も一日コーヒーもぎ
(二)おもえば去年の今頃は
友と学校に通しを
今じゃ手にマメ足にマメ
汗にまみれて野良仕事
(三)折から今日もにわか雨
木陰にようよう雨を除け
濡れた着物もそのままに
赤土重いエンシャーダ
(四)兄はマラリア今日も亦
午後の三時に熱が出て
麻の袋にくるまって
震へる体を草枕
(五)朝は夜明けに起されて
昼は炎天玉の汗
帰る家路は星明り
いつまで続くこの体
(六)初めて着いたふるさとの
手紙を父母は読み返す
「孫の名呼びつつ祖母逝くと」
思わず落とす一雫(しずく)


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