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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2009年3月号

2009年3月号 (2009/03/04) まさか、私が狙われるなんて

サンパウロ中央老壮会 中村節子
 「何で貴女のような人がこんなサギにひっかかったのよ」私を知っている人は皆こう言います。
 そうです。新年早々に私はサギにあってしまい、大金一万レアイスを騙し取られてしまったのです。一月最後の金曜日のことでした。孫が働いている会社の日系人の同僚の名前で突然電話がかかってきました。孫が会社の車で仕事に出ていて、今、衝突事故を起こしてしまった。孫は胸を打って話もできない。相手の車の人は足を折っているようだ。悪いことに孫のカルテイラ・デ・モトリスタ(免許証)は、ベンシーダ(期限切れ)していてデトウラン(交通局)でも難しいだろう。と言う事でした。
 彼のママイ(=私の娘)に電話したが連絡がとれないので私に電話していると言います。「相手の人は『医者代一万五千レアイスを払ってくれたら示談にしても良い』と言っているがどうするか」と言います。
私はびっくりしてしまい、「急にそんなことを言われても五千ぐらいしかない」と言いますと、僕もアジューダ(手伝い)するから残りはバンコから借りたら良いといいます。また、この車は保険に入っているので後でお金は返ってくるので心配はいらないと言います。話を聞いて、あわてて娘に電話をしましたがやっぱり連絡が取れません。
 これは私が何とかしなければと、主人に一部始終を話し大急ぎで二人でバンコ(銀行)に行き私のお金を下ろし、足りない分を借りました。そして、ちょうど家の上のルアに会社の人が待っているのでその人に渡したら良いと言われその様にしました。
 後は一刻も早く孫が帰って来ないかとケガの具合を心配しながら待っていると、家の前で車のブジーナ(クラクション)が鳴ります。「帰って来た」とすぐに外に飛び出してみると、孫の友だちが「孫は帰っているか?」と聞きます。「孫は今、事故を起こしてしまっているが、もうすぐ会社の人と帰ってくる」と言いますと、「何を言っているの。エドは今まで一緒にいて、僕の方が先に着いたから少し待たせてもらう」と言います。「何?どういうこと…??」。
 騙されたと判るまでそう時間はかかりませんでした。後の祭りです。騙された悔しさ、その上、娘にまで叱られて本当に立つ瀬が有りません。
 新聞紙上でも言われているオレ、オレ、サギ。他人ごとではないのです。落ち着いて考えて見れば色々とおかしな節があるのですが、その時は解らないのです。
 また、銀行も簡単にお金を貸してくれるし、今は本当に孫が怪我をしていなくて良かったとそれだけを思うことにしています。貴女も狙われているかも知れません。皆様もくれぐれも気をつけて下さい。恥を忍んで筆をとりました。


富士山

レジストロ春秋会 大岩和男
 それは初めて行った日本で、ひと月もたたない或る日のこと。ブラジルを発つ時に親戚から「娘が一年前に日本に行ったまま消息が分からない。最後の住所はこれだ」と住所書きをくれた。そして「日本に着いたら、訪ねてくれ」と頼まれて来ていたので、それを果たすべく家内と友人夫婦の四人でその宛名を頼りに旅に出たのであった。
 日本の電車に乗るのも初めて。切符や乗車券を買うのも初めてで一向に要領が分からず、行く先の駅名を言って買えたのは、各駅停車の鈍行だった。
 いくつかの町を通り、鉄橋を渡り、山間を走る汽車。ただそれだけで無償に嬉しかった。小学生がはじめて遠足に行くように浮き浮きしていた。自然に口を突いて出たのは「♪今は山中、今は浜~~今は鉄橋を渡るぞ~」という、あの小学校唱歌だった。
 と、突然、本当に予期せぬ物体が汽車の真ん前の森の上に忽然と姿を現したのである。それは瞬時のことであったが、すぐに「あれは富士山だ!」と思った時はすでに見えなくなってしまっていた。その一瞬は驚愕と感激とが交錯した複雑な気持ちだった。俺は富士山を見た!見ることができた!日本の象徴、名峰富士を!ブラジルにいるたくさんの友人たちに向かって、大声で叫びたい衝動に駆られた。そのブラジルの友人たちと会えば必ず日本の象徴富士を夢のように話し合った。その富士をこの俺の目で見た。その感激は滂沱(ぼうだ)の涙となって頬を伝わった。
 やがて右手に見えたその霊峰は、蛇行する列車の進行に連れて、左手にしかももっと間近に姿を現した。「お~い。富士山だぞー」と家内と友人夫婦にかけた大きな声は感激に震えていたし、大勢の乗客を驚かせてもしまった。艶やかというのか。神々しいと言ったらよいのか、とにかくすばらしい。きれいだ、見事だ、と感嘆の声の連続だった。
 その後は日本の生活にも慣れ、東海道本線、新幹線、東名高速バスで豊橋と東京間を何回となく往復したか知れないが、あの初めに見た秀麗(しゅうれい)にして神々しい山容を見ることは二度となかった。
 何年か後に千葉に住んだ時、友人に誘われて、わざわざ御殿場まで富士山を見に行った。着いた御殿場は富士の裾野にありながら、その裾野さえ見えない深い霧に包まれていて、富士の片鱗(へんりん)にも逢うことができなかった。その御殿場に何十年も住むという居酒屋の女将さんが「私はここに何十年も住んでいますが、富士山の全容を見ることができるのは一年のうち一、二回しかありません。せっかくおいでになったのにお気の毒です」女将さんはさらに「富士さんは近くで見るより遠くから眺めた方がもっときれいですよ」とも話された。
 燈台元暗し。遠くから見よ、富士の山。
 やっぱり富士は日本一、いや世界一の名峰である。


善玉・悪玉

名画なつメロ倶楽部 田中保子
 最初にお断りしておきますが「六千人の生命のビザ」の主役杉原氏の偉業にこれっぽちもケチをつける積もりのない事をくれぐれもお含み頂きます。
 リトアニアの出来事の際、孤軍奮闘する杉原氏を見捨てて、本省の命令に従い帰国した公使大鷹正次郎は、深川の芸者を落籍して正妻にした科で日本帝国外交官の職を失いました。大鷹の母親はそれを恥じてこの一人息子を勘当し、親戚・一同に「今後大鷹家に一切関係なき者にて候」の御布令れを出したので「正次郎」の名も「芸者」という言葉も親戚間ではタブーとなっています。
 正次郎の母親、千代女は当時の日本女性には珍しく五尺五寸もあり、お世辞にも十人並みとは言えず、色黒く鉄鉢巻で薙刀(なぎなた)を持った方が似合いそうな女丈夫でした。息子を勘当した千代女は三人の孫のうち、末の孫娘を跡継ぎにして育て、双子の男孫は後に外交官となりました。双子の片割れはその昔、銀幕を賑わした山口淑子と結婚しています。
 勘当された正次郎は妻を伴って青森八戸の人里離れた山林に入り、開拓をして生涯を閉じました。
 元外交官と元芸者の耕した畑には何が育ったのでしょうか。本省の命に従った正次郎は「卑劣な外交官」と言われ、後に紆余曲折がありましたが杉原氏は人道的な良心を持った外交官と称えられています。
 「日短や荒地三尺持余し」うまいのか、下手なのか分かりませんが、人伝に聞いた開墾地の息子夫婦を偲んで作った千代女の句です。


ウマクサーイ

レプレーザ高砂子会 原克之
 今から約六十年程前、私たち家族はサント・アマーロ郊外奥のシッポーという所でバタタ(馬鈴薯)作りをやっていた。貧乏百姓だったけれど、兄弟妹と働き手は五人も揃っていたので、植え付け時期には二百俵の種薯を植えたこともあった。二百俵を植える土地の面積は広く、その土地の耕作には二頭掛けの馬で二ヶ月近くかかった。
 馬も仕事のし始めは、元気もよく暴れたり走ったりするので、よく拳骨(げんこつ)で馬の鼻面を殴ったりしたものだった。それが一週間も二週間も働かしていると、馬も疲れ
が出てきて歩かなくなってくる。声をからして三度怒鳴って一歩といった具合にだんだ
んと土地の耕作が捗らなくなってくる。
 こっちはもうイライラして怒鳴りまくっても馬の奴は「馬の耳に念仏」といった顔で「屁でも食らえ」とばかりに二頭の馬が交互に尾を上げて屁をぶっ放すので、こっちはもっと癇癪(かんしゃく)を起こして馬の尻目掛けて固い土の塊を力いっぱい投げつけてやる。すると馬もそれにたまげて思わず大を放つので、私もそれには可笑しくなって、仕事をしながら一人で笑ったりしたものだった。
 このようにして、毎日毎日、馬と共に働き、毎日毎日「ウマクサーイ」馬の屁を嗅ぎながら、一月も二月も一緒に働いていた頃の私の?もウマクサーイ(?)だったろうか。


素晴らしい人生を送る人達

カンピーナス明治会 樋口四郎
 最近、我が人生を振り返ってみた。自分の歩んできた移民人生は単身ブラジルに乗り込んできた当初から五十数年間、一度も後悔しなかった。初期のホームシックもなかった。それほどブラジル大好き人間の人生は今だ変わらず、先輩諸氏の御指導のお陰で良い人生を送っている。
 昨年、ブラジル日本移民百周年祭が政財、民間を上げて次々と繰り広げられ、各地各人を総動員して、有意義な年であった。このような催しに奔走された実行委員役員、各位、また物心両面からご賛同された人々により、全伯国民に小さな「日本」という国の大きな文化と民族の優秀性を改めていかんなく印象付けられ、誠に御苦労様でした。中でも普段からあまり表舞台の衆目の面前に好んで立たず、縁の下の力持ち的存在で働いておられた人々に心を打たれる思いがした。実行委員会のお顔ぶれでは我先に元会長、現会長、現有力役員として晴れの舞台の役者に連なることはさも当然と由々しく動き回る方々の中にあって、目立たず静かにやるべき事をやり、催し物などには重きの利く仕事を黙々とされる人を当地方でも三、四十年前からお見掛けてしている。実に頭の下がる素晴らしい人である。
 この世に損得を考えない人もおられるものだと感心しながら今日に至っている。私等などはその人の爪の垢でも煎じて飲まねばならぬ部類だが…。
 最近、老クの沖会長より「君達は文協の付き合いが長いようだが、現会長とか元会長のご機嫌ばかり気にしないで、もっと大事な事を発言したらどうだ」と、注意された。その途端に目が開いた。今、早急にやるべき事を失念していた。
 毎年毎年同じような記念行事があり、その都度、在住の高齢者に感謝状、表彰状が出るが、これは地元としては至極当然だが、あまり喜ばれている様子はない。因みに私事で恐縮だが、昔(四十七歳の頃)、コメンダドール賞を頂いた。しかし一体何で戴いたのか、今となっては皆目忘れてしまっている。そのような事情もあり、前述の縁の下で働く先輩の件を考えるべきと気付いた。確かに移民百一年目ともなれば、一世はだんだん少なくなっている。この機に地元の皆様のご協力を仰ぎ、前述の方達に表彰、叙勲となるように世論を持っていくことに無力ながら勤めてみる事と、今年の計を私なりにたててみた。
 またこういう事は私ごときが出しゃばる事でもないのだが、さりとて現状の日系三、四世代はなかなか思うほどに感覚が一致するとは限らず、よく話し合い、先駆者の偉業を認識して頂く他はない。
 誰もがその働きを認め、長く栄誉を称え、感謝の意を表してこそ意義があると思う。模範となる素晴らしい人生を送られた先輩移民に如何に報いるかを考え、後続の三、四世の皆さんに多少でもお役に立てれば幸いで、これも後輩移民の務と考えるべきである。


息子健介が遺していったもの ⑥

サンパウロ中央老壮会 徳力啓三
 私ども夫婦は、朝起きると一番に健介におはようという。居間のいつも健介が座っていた辺りの壁際に三角形の飾り棚がある。この棚を改良して健介の遺影を置いている。家にある果物や花でかざり、時には三時のおやつとお茶を置く。
 今もそこに居るかのように思うこともあるが、もし居たら心配だらけで、彼にしてもとても苦しかろうと思う。天国で生き生きと好きなことをしていると思った方がどれだけ楽しいことか。夫婦の会話はいつもそこに行き着き、それで「よかったんだ」と結論し、安堵の気持ちになり、一日が始まってゆく。
 私が向こうの世界に返って行く時、一番最初に迎えに来てくれるのはきっと健介だと思う。一足先向こうに行くことも、彼の計画のうちで、私の実業家としての仕事に一段落ついた時点で、もう一回り皮を剥き心の領域を広めよという彼の示唆であろうと思う。それは健介の埋葬から帰宅して一時間も経つか立たないうちに、りんりんとなった電話は三重県人会長からの電話で、次期の会長になって欲しいのだがという要請であった。私はしばらく考えてから「これはきっと健介の意思」によるものと思い、受ける決心をしたものだ。
 健介が生れた時から三十七年間、休む暇もなく面倒を見続けた妻の苦労は如何なものであったろう。しかし考えてみると、健介が来てくれたからこそ、その苦労が今の彼女を創りあげていったと思われる。女性としての感性を磨き上げ、女性としての強さややさしさを獲得したのではないだろうか。海外に出て、頼る人も居ないところで障害を持つ子を育てるだけでも並大抵ではない。言葉の分からない所で病院通いをする不安ははかりしれない。日本で健介が手術を受けたときには家族も居ないところで八か月も耐えた。それら幾多の苦難を乗り越え、朗らかに笑える人になっている。健介が遺していったこれも「後遺症」であろう。
 私達夫婦だけが健介のメッセージを受け取っているのではない。彼の兄弟達も、親の目が常に健介の上にゆき、健介中心の家庭の中にあって割りを食っていたのは確かであった。それでも自分の置かれている立場をよく理解し、不足を言うことなく「自分が元気でおられることは健介がその分背負ってくれている」からだと自分のことより健介の望みを優先することが当たり前だと考えていたようだ。健介の妹になるまゆみは、実によく健介の面倒を見た、中でもお医者さん関係はすべて彼女の担当でブラジルで手術するようになった一九九八年以降は実によく気を使い健介に役たつ情報を調べ、難しい交渉をやり遂げていった。人の世話をすることの大切さを学び、今それが子育ての上にどんなに役に立っていることか、健介の周囲に対する気遣いを一番よく理解しているのも彼女であると思う。
 末っ子の耕介は、手術後の看護の経験を持ち、健介がどんなに苦しい闘病生活を送ったか知っている。自分は両親が居なくなっても健介の世話をちゃんと最後まで面倒みるから心配しないでいいよと私らに言ったことがある。自分のことより他の人の事を温かく想えるような考えを持てた事はこれからの生き方にどれほどの遺産になるだろう。
 健介は逝ってしまったが、深い深い思いを一緒に過ごした人々に残し、それぞれが深い悲しみ落ち込まなくてよい絶妙のタイミングを見計らっていたようだ。自分にとっても限度一杯、もうこの辺でよかろうと自分で幕を引いたと思えてならない。素晴らしい人生の幕引きを自分で出来るような生き方をしたいものだ。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑲ 文壇の長老と尊称 井伏鱒二
 太宰治のようなひがみっぽくて、変にプライドだけは高い扱いにくい不良青年を弟子にとって、辛抱強く面倒を見続けたという事実だけで、この人は極めて温厚で大人物の風格を持った人と認めることが出来る。昭和一三年から翌年にかけて、太宰は井伏が滞在していた山梨県に移転、井伏夫妻媒酌のもとに甲府の女性と結婚しているほどである。また、井伏が師事したのは佐藤春夫であり、自身も「文学についてはいろいろ教わり、文章のテニオハまで教わった」と述べているのは興味深い。
 井伏の小説は一読して才気とか技巧的なものは余り感じられず、どちらかと言うとローカル色が濃く、それがユーモアに彩られているところに特色がある。文章も難解なところは殆どなく、そのせいか映画化も多く、大半が佳作に仕上がっている。「本日休診」(二七年、渋谷実)は「遥拝隊長」とを折衷して作られた風俗喜劇だが、敗戦後ようやく最悪の生活状態から回復した時期の東京の下町の庶民の生活が見事に活写されている傑作である。開業医の柳永二郎が情味のある名演技を見せているが、陸軍将校として戦争に行き、頭がおかしくなって復員してきた勇作(三国連太郎)が発作を起すと町の人達に号令をかけて敬礼を強要するのがおかしい。「集金旅行」(三二年、中村登)もアパートの大家が亡くなって一人残された少年と美人娘(岡田茉莉子)を連れて部屋代を踏み倒して逃げた人達から勘定を取り立てるための旅に出た青年(佐田啓二)の道中記。「駅前旅館」(三二年、豊田四郎)は上野駅前の旅館の番頭(森繁久弥)の行状記で映画もヒットし、爾来一〇年間に亘って合計二四本の〝駅前シリーズ〟が製作されたほど。「黒い雨」(平成元年。今村昌平)は広島の原爆被爆者の忍苦と不安の日常を無言のいたわりの目でみつめている。黒い雨を浴びた矢須子(田中好子)が自分の髪の毛が脱け始めたのを知り、絶望的な笑いをもらすラストが極めて衝撃的である。
 井伏は広島県福山市出身。中学時代は画家を志したが、早稲田仏文に進み同郷の青木南八(早世)と知り合い「山椒魚」(昭和四年)で文壇に登場した。これに続く「屋根の上のサワン」(四年)には彼のユーモア、悲しみ、微笑、はにかみのことごとくが織り込められており、既にその作風の特色が表われている。一二年には「ジョン万次郎漂流記」で同年下半期の直木賞を受賞。ほか戦前の主な作品には「朽助のゐる谷間」「丹下氏邸」などがある。
 釣りと旅行が好きなことでも知られ、日本中至る所に足を運んでいる。四一年には文化勲章を受け、その創作活動は九十歳まで及んで文壇の長老と呼ばれ、平成五年に九五歳まで長寿を全うした。


忍び寄る危険(下)

サントアンドレ白寿会 宮崎正徳
 それはパンデミック、恐ろしい疫病(えきびょう)の爆発的流行です。人類は過去に三度体験しました。十四世紀のペスト、十九世紀から二十世紀にかけて七回あったコレラの流行、そして数千万が死亡した一九一八年のスペイン風邪です。今、懸念(けねん)されているのは近年東南アジア諸国で発生している鳥インフルエンザです。この病気を引き起こすウイルスが突然異変し人から人に移るようになったら、急激に世界中に広まり死者は数億人に達すると予想されています。学者は「発生するかも知れない」から「いつ発生するか」の段階に差し掛かっていると警告しています。
 疫病が狭い範囲で流行することを「エピデミック」といい、世界的規模で流行することを「パンデミック」と言います。中世以前、国家も小さく人的交流の少ない時代は「エピデミック」はありましたが「パンデミック」はありませんでした。近世初頭に入り国家間の貿易や人的交流が盛んになってから最初のパンデミックとなったのは一三四八年ヨーロッパを襲ったペストの流行です。実に人口が三分の一から二分の一ほども激減したと伝えられています。疫病によって人口が激減した時、国家社会は地獄絵図(じごくえず)と化すのです。イタリア・フィレンツ市のその様子がボッカチオのデカメロンに詳しく紹介されています。
 「ペスト蔓延(まんえん)後、尊ぶべき法の威信は宗教界においても俗界においてもほとんど皆地に落ちて顧みられなくなっていた。というのも法の守護者も施行者も他の人間と同様に皆死んでしまったり、病の床に付いたりあるいは下役人が居なくなったりして何の政務も行えなくなってしまっていた。それゆえ誰もがしたい放題のことをしてよかったのだ。隣人はほとんど一人として隣人の世話をせず、親戚同士でさえ見舞いあうことはめったになく近寄りもしませんでした。兄弟であっても兄は弟を棄て、叔父は甥を棄て、妹は兄を、そしてしばしば妻は夫を棄てて去った。しかも挙句の果てに…。ほとんど信じがたいことであったが父親や母親が子供を避けてまるで自分たちの子供ではないかのように見舞うことも面倒を見ることもなくなった。このため病の床に伏した数え切れない男女の群れは慈悲深い友人たちや(そういうものはごく少数しかいなかったが)あるいは法外な報酬を目当てに看護にやってくる召使の他には頼るべきものもいなくなった。また、おそらく大多数の中流の人々にはより悲惨な状況が待ち受けていた。なぜなら彼等の多くは虚しい期待を抱きながら、あるいは貧困ゆえにそれぞれの家の中に引きこもり、隣り合って生活していたために日に何千となく病んでゆき、何の世話も援助も受けられずに逃げ場さえほとんど失って等しく皆死んでいったからだ。そして昼夜を分かたずに街頭で息絶える者の数は知れず、また家の中で息を引き取るものの数はさらに多かったわけだ。彼らは腐敗した死体の臭いによってやっと己の死んだことを隣人に知らせるのだった。こういう風に所構わずに死んだものたちのにおいがあたりには満ちていた。散在する村落や畑地には貧しく惨めな小作人やその家族たちが医者の手当ても付添い人の介抱も一切なく道端や耕地や家屋の中で昼となく夜となく人間というよりはむしろ家畜そのものとなって死んでいった。そのために彼らも都市の居住者が自分たちの風習をないがしろにしていったのと同じように彼らのなすべき事柄も幼児も一切顧みようとしなかった」(記録講談社デカメロン二十二頁)。
 想像するだけで吐き気を催します。対処の方法がない疫病の流行にはただ死を待つしかないのです。しかし人間の生に対する執着(しゅうちゃく)は強烈ですから、絶望的な状況においてもせめて自分だけでも生き残りたいと必死にもがくのです。その結果、社会秩序の崩壊、治安の極端な悪化、道徳の無力化、家族愛の消失などが一度に現れてくるのです。もはや人間が人間でなくなるのです。パンデミックは食物連鎖(しょくもつれんさ)から抜け出た人類に対する自然界の報復という説があります。


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