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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2009年12月号

2009年12月号 (2009/12/16) 為せば成る

セントロ桜会 井本司都子
 あれはいつの頃の事だったかしら。私がまだ四十歳になる少し前だったと思います。いつも若い者を二、三人置いて、私たち夫婦が写真業をしていた頃、主人はいつも色々な用であちこちを歩いて回る事が多く、夕方、家へ帰ってくると「疲れた」と言って仕事をしたがりませんでした。
 私は困って、明日お客さんが写真を撮りに来られたらどうしようかと心配になり、自分でやってみようと思い立ち、現像を始めました。
 すると見よう見まねでどうにかできるようになり、一心にやれば出来るものだという事が分かりました。それからは夜も遅くまで私は仕事をするようなりました。
 それから幾年か経って、五十九歳になった時、ふと気が付いた事がありました。今までは子育てと家事だけをやって来て、それから先のことをあまり考えなかったのです。来年は六十歳になる、六十歳を過ぎると、あまり歩いて回る事が出来なくなるかも知れないと思い、婦人会に入れてもらい時々出掛けるようになりました。
 そして短歌を作って、陣内さんに見て頂き、短歌の仲間にも入れて頂き、好きなピアノも習えるようなりました。忙しくなったけれど、楽しくなりました。
 それから間もなく、主人が大腸癌にかかり、手術をする事になり、麻酔が覚めないまま、帰らぬ人となってしまったのです。一時は気を落として、もう私の人生は終ったと思ったのですが、これではいけないと思い直し、気力を取り直しました。
 今、私は足が不自由になり、車椅子の生活となったけれど、子や孫に囲まれ、そして、良いお友達に支えられながら毎日を無事に過しております。車椅子の生活でも出来る事はたくさんあります。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」。二〇〇九年、年末の寸感です。


ある老婆の述懐

レジストロ春秋会 京増アキ
 人間はなぜ生きるのかとか、なぜ苦しくとも生きようとするのかと、お釈迦様がそして親鸞聖人が言っておられますとの教えですが、私はこの世に生れてこの方、一度も苦しいとか辛いと思った事はなく、むしろ、働く事は楽しく感じていました。また、食べるものも何でも美味しく食べられて、いつも楽しく不服な事はありませんでした。お父さん、お母さんは良い時に生んで下さったと感謝しております。
 ただ、結婚は見合いで、大人しそうな男性なので一緒になりました。私はいつも夫を大事にし、気を遣い、努めていたつもりですが、この人には私のすることが何もかにも気にくわんらしく、以前から飲んでいたという酒が益々大酒のみとなり、何一つ口答えもしない私を叩く、蹴るの乱暴をするのでした。
 でも、私は何事も辛抱と我慢しました。女のすべき事はすべてこなし、その上、男のする仕事もどんな力仕事でもやってのけました。そうした事を日本にいた時からブラジルに来ても続け、早五十年以上も経ちました。でも、毎日楽しく暮らそうと心に決めて、一日一日を繰り返して、この年齢まで過して来ました。
 五年ほど前、いつも飲んでいた酒に飲まれたらしく、夫は二回も転倒しました。二回ともすぐ病院に入院し治療しました。担当医から酒とタバコは厳禁され、それで二つともピタリと辞めてくれました。本当に良かったと思ったのも束の間、転倒が元で、足腰が立たなくなり、今度は寝たきりとなってしまったのです。食事は食べさせてあげるし、間断なく漏れる排泄物のお世話と私に大量の仕事を作ってくれることになりました。私に元気の本をくれたと頑張っています。人は思い様、考え方ひとつで何とでもなると自分に言い聞かせて自分は幸せだ!と思っています。
 二十年ほど前から良い人だと思ってお付き合をし、私の尽くせる限り仲良くしたつもりの人が、私の一人よがりだったらしく、三年ほど前にその友だちの家を訪ねたところ、頭からひどい事を言われてびっくりしました。しばらくは会わないようにしていると、ある日、向こうから電話で別の友達のところへ一緒に見舞いへ行こうと急に誘われ、はいはいと返事をしてしまいました。
 ところが後になって分かったのですが、うまく利用されて付き合わされたのでした。何か理由をつけて断れば良かったと思いましたが、後の祭りでした。私はどんな人とでも仲良くしたいと思うのですが、やっぱり嫌な事をされると気になります。でもその人と会えば普通に挨拶し、人様のお見舞いや不幸にはきちんと付き合っています。
 人間の肝の中など分からないものです。私の気持ちはどんな人にも優しく、会えば笑顔で挨拶がしたいのです。この年になってでも人に良くし、良く思われたいといつも思い、その日その日を暮らしています。
 私は毎日元気でいて、自分で自分の体が自由にならない主人のお世話をしながらお互いに美味しいものを分け合って食べ、何事にも笑顔で優しく接し、毎日を大事に楽しく暮らしております。あと何年生きられるか分かりませんが、皆さんのお世話になります。どうか宜しくお願い致します。お互い、身体を大切にして楽しく暮らしましょう。
付記・真心を込めて看護されたご主人も昨年、とうとう不帰の人となったそうです。合掌。


また新年がやってくる

レジストロ春秋会 清丸米子
 年のせいか、一年の月日の経つのが早い事。特に去年はブラジル日本移民百周年の年にあたり、何処の町でも祝典の催しがいっぱいで、あっという間に一年が過ぎてしまいました。レジストロ文化協会では、毎年元旦に新年のお祝いをします。
 今年は特にタイムカプセルの記念の箱を用意して、色々な記念行事の記事や大勢の人たちのメッセージ、現在流通している硬貨、紙幣などを兼ねて用意してあった豊田豊彫刻師製作の移民百周年記念碑(レジストロ文化協会の裏庭)の中に収めました。
 大勢の方々が集まり、楽しく新年の挨拶を交わします。レジストロ文協の新年会はまず最初にブラジルの国歌、君が代の斉唱、続いて「♪年の初め」の歌を全員で歌います。
 そうして文協会長が年頭の挨拶を述べて、新年の抱負を誓った後、各団体の会長、または代表が新しい年のお祝いの言葉を述べます。すぐ乾杯の音頭「乾杯!ビバ!バンザーイ!」と全員コップを合わせて、新しい年を祝福しあいます。
 その後は朝早くから婦人会会員総出で用意した雑煮をよばれます。今年は大勢の人たちが来られ、百人を超す盛況ぶりでした。この集まりは毎年、多くなります。私はこの新年会は本当に素晴らしく良い集まりだと思います。
 一人ひとりに「また、よろしくお願いします」という言葉に、新たな親しみを感じ、良い年がやってくるような気持ちにさせられるからです。


曼珠沙華

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 太宰治は津軽には七つの雪が降る。みず雪、かた雪、こおり雪、こな雪、つぶ雪、わた雪、ざらめ雪である、と言った。
 谷崎潤一郎には小説「細雪」があり、宮沢賢治の童話にも「しみ雪」という言葉が出て来る。
 さて、我が家の狭庭(さにわ)に十一月末頃、日本の曼珠沙華に似た花が五本、次々と咲いた。童(わらべ)歌の「紀州の殿様てんてまり」そっくりの真ん丸い赤い花である。
 ブラジル曼珠沙華と名付けて、鉢で大事に育ててきた。その一番咲きを瓶(びん)に挿し、老ク連のお地蔵さんのお賽銭(さいせん)箱の隣にお供えした。
 太宰治は「富士には月見草がよく似合う」と言ったけれど、百年地蔵には曼珠沙華が赤い涎(よだれ)掛けに映えて、誠によく似合った。
 この花は私が育った日本の田舎では、畦(あぜ)や堤(つつみ)一面に群生(ぐんせい)していた。子供たちは何本も手折(たお)っては、冠(かんむり)や首飾りにして、土手から下の小川まで、花絨毯(じゅうたん)の斜面(しゃめん)を滑(すべ)り降りして、疲れると花の中に寝たものである。
 歳時記(さいじき)をひも解いて驚いたのは、曼珠沙華の根には毒があり、薬用にもなるが七つの俗名(ぞくみょう)を持ち、彼岸(ひがん)花、捨子(すてこ)花、女郎(じょろう)花、おいらん花、狐(きつね)花、幽霊(ゆうれい)花、死人(しびと)花とも呼ばれると、「雪」とは大違いである。
 しかし、曼珠沙華は佛が説教する時、天から降ってくる花だと言われる。
曼珠沙華抱くほどとれど母恋し  中村汀女
父若くわれあどけなく曼珠沙華  中村汀女
つきぬけて天上の紺曼珠沙華   山口誓子
泣けてくるような、私の好きな句である。昭和ひと桁(けた)生れの私にとって、何と呼ばれようとも、いつまでも懐かしく思い出と共に心の中に生きる花だとしみじみと思う。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(28) 多芸多才の剣豪作家 五味康祐
 何と言っても「柳生武芸帳」を面白く読んだ記憶が強烈である。柳生一門の運命を左右すると言われる〝柳生武芸帳〟をめぐって、柳生但馬守、十兵衛父子が一族と山田浮月斎及び直門の霞多三郎、千四郎の双生児兄弟の暗闘、ほか謀将、剣客、美姫が入り乱れて、知略の限りを尽くしてあい争って、九州から江戸、そして東海道と繰り広げられる一大時代小説絵巻ともいえる大作である。昭和三〇年に創刊された「週刊新潮」に柴田錬三郎の「眠狂四郎無頼控」と並んで連載され、剣豪作家の名を高からしめたもの。映画(昭和三二年、稲垣浩)にもなって三船敏郎と鶴田浩二が共演、これもヒットしたものだった。文壇へのデビューは昭和二七年の「喪神」での芥川賞受賞で、松本清張(『ある「小倉日記」伝』)とのダブル受賞だった。
 大阪市の生まれで生後間もなく父を亡くし、家業の映画館を失ったことから、母方
の祖父母のもとに育った。明治大学中退、昭和一九年には学徒動員で応召、中国大陸を転戦した。戦後、亀井勝一郎や保田與重郎に師事、「喪神」の後は「二人の武蔵」「柳生武芸帳」「柳生石舟斎」など、剣の世界を題材とした小説を数多く発表、柴田錬三郎、中山義秀らとともに剣豪ブームを巻き起こした。「薄桜記」は昭和三四年に森一生の演出で市川雷蔵、真城千都世、勝新太郎の共演で映画化されている。赤穂浪士討入りにからむ秘話。丹下典膳と中山安兵衛は互いに尊敬し合う仲だが、運命の波に隔てられて対決させられるという、格調高い時代小説である。
 クラシック音楽(「西方の音」)、麻雀(「麻雀武芸帳」「五味麻雀教室」)、手相・観相学(「五味人相教室」)野球等々、非常に趣味の多かった人で、日常は和服姿で通し、奇行もあった作家だった。野球では特に巨人軍のフアンであり、長嶋選手らとの交流が深く、「小説・長嶋茂雄」「川上選手が泣いた」などの著書があるが、特に「一刀斎は背番号6」は荒唐無稽な剣豪野球小説として面白く出来ている。奈良の山奥で一刀
流の修行を積んだ青年が、プロ野球にスカウトされる。飛んできたボールから反射的に身を交したりするため、守備は全然出来なかったので代打専門としてプロ野球にデビューし、三九打席代打ホームラン一〇〇%という成績を残す。昭和三四年に映画化(木村恵吾)され、菅原謙次が主役を演じている。
 このほか、時代小説に好色な味をつけたものをかなり書いており、「色の道教えます」(三五年、加藤泰が映画化)「色は匂へど」などが主なものである。昭和五五年、肺ガンのため五八才で死去。


コロニアの俳句

老ク俳檀選者 栢野桂山
 ブラジルは言うまでもなく、北は赤道(せきどう)直下(ちょっか)から南は雪まで降る広大な国土を所有している。したがって、この国の植物・動物の多様さは世界でも類のないものである。
 また、この国には原住民のインディオが住んでおり、多数のアフリカ奴隷の導入もあり、その上、全世界の様々な移民を導入した。だからブラジルの衣、食、住、冠婚葬祭(かんこんそうさい)をはじめ、その他の珍しい人事は多種(たしゅ)多様(たよう)で、それが混合して独特の文化が形成された。
 またこの国は我々の祖国と違って四季が曖昧(あいまい)なので、四季の変化による自然美、季節が変化する中で生きる人間の哀歓(あいかん)を詠む俳句は育たないのでは――と、昔から言われていた。
 だが、六十年も住んでブラジルの自然に親しみ、農業に生きてきた著者のように日本に生れたけれど幼少の頃に渡伯した者、またブラジル生れの日系人には、この国の自然を詠むのにそんなに違和感はないと思う。
 日本移民と共にブラジルに導入された俳句はすでに百年という歴史があるが、現在、その作家の平均年齢が八十歳から九十歳という高齢化により、その数が年々減少している。俳句作家の減少によって、コロニアの俳誌、新聞雑誌の俳壇、俳句会が消滅(しょうめつ)していき、それに連れて作句を辞めてしまう作家がすでに現れ始めている。
 しかるに日本語の、特に俳句という文学の難解さもあって、後を継ぐ若い作家が育っていない。でも現在、ポ語の有季ハイカイが伯人および日系の二、三世間に広まっているようで、その大会になると、百名前後のハイカイスタが集まってくるという。ポ語のハイカイの書はすでに数多く発刊されていて、俳句という日本固有の文芸がポ語という形に変わり、根付き育ってゆくとは何と喜ばしい事だろう。
 そしてこのポ語ハイカイがこの国に育っていくその土壌(どじょう)となったのは、もちろん我々の恩師、故・佐藤念腹先生で、この広大な国土の大自然の中より、俳句の季語(きご)季題(きだい)を発見、確立して、俳句の処女地であったコロニアにその生涯をかけて指導された。これは日系コロニアのみでなく、ブラジルの文化史として後世に残るものと思う。
 その念腹先生の後を継いで、写生俳句を広めている先生の弟である牛童子先生を先頭に、念腹先生の数少ない直弟子の我々は写生俳句を、作家の減少していく中で、五年でも十年でも永く詠み継いでいくべく命がけで努めなくては――と、思わずにはいられない。
 「木蔭はブラジルに住む俳句求道のため益するよう、その芸を練磨(れんま)できるようにと、開かれた純正の俳句道場である」。
 これは「木蔭」刊行の折の念腹先生の言葉であるが、これを復唱(ふくしょう)して、コロニア俳句を維持していかなくては……と、移住二百年に向けて踏み出したこの機につくづく思うのである。


年の終わりに

老ク短歌選者 渡辺光
 老ク連の短歌愛好者の皆様にもお変わりないことと存じます。今年も今回が最後の掲載となりました。寄せられた作品に対して、紙面に余裕があれば書き添えたい時もありますが、何卒、ご容赦(ようしゃ)下さい。
 「冷泉家和歌秘伝々口伝」に和歌の文字数が三十一文字であるのは、一月(ひとつき)が三十日で終わり、また次の月の第一日を始まりとする。つまり、天の月日の循環(じゅんかん)の永遠の姿を反映している。と、ほぼそんな内容のもので、いつ、誰が記したものかは不明だが、「古事記」「日本書紀」に始まる神道に基づく考え方らしい。
 千三百年を越えていき続けるこの奇跡(きせき)の詩形の謎に天道はともかく、私たち日本人の心身にリレーされている……と、歌人・小島ゆかり氏は書いている。
 このように永い年月を経ても、なお美しい日本語を学んでいる私たちは幸せだと思います。
 頭脳(ずのう)が働いている限り、人それぞれの日常を詩形に遺しておく事こそ、生きて来た証だと思います。
 これからも上手、下手ではなく、自己の常日頃の出来事、見た事などを日記同様に遺していきましょう。来る年も宜しくお願い致します。


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