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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2010年7月号

2010年7月号 (2010/07/11) 宗教と日系社会の一風景

イタペチニンガ千歳会 和賀耕月
 私たちのお寺に日本から高僧が指導にやって来たことがある。高僧がやってきた時にはいつも最後に法話があり、その後、質疑応答がある。その際にこんな質問をしてみた。「ブラジルはカトリック教が盛んで各町にたくさんの教会がある。この国に暮らしている私たちは当然、結婚式など種々のイベントから教会へ行くことがある。仏教徒として、教会の中に入った時、手を合わせてお祈りすべきか、カトリック信者を真似て十字を切るべきか?」。
 この質問に対して高僧は即座に回答してくれた。「仏教徒はどこへ行っても両手を合わせてお祈り下さい」と。教会の中に入っても手を合わせお祈りせよというのだろうか。これに対して素直に「ハイ」と返事をしたが、何か心から納得した訳ではなかった。教会に入って、仏教式に手を合わせて祈るというのは大変な違和感があり、抵抗があるものだ。彼はまだその経験がなかったのだろうか?
 私たちのお寺は聖市のセントロにある。大変賑やかな通りに面している。ここで月に一度「アパレシーダ観音」と称して、いつも閉まっている正面の扉を開け、中の本堂、そして御本尊を拝観できるようにする。そして本堂と通りとの空間で道行く人たちに昼食を提供する催しがある。これに参加する人たちは皆、焼香をして、手を合わせ御本尊にお祈りし、その後、食事をして頂く事になっている。この時間には初めから終りまで数人の僧侶により、お経が休むことなく唱えられ、それが厳かに響いているのは、壮観である。
 ここでもし「私はカトリック信者です」という人が現れ、焼香も無く、手を合わせることも無く、胸で十字を切られたらどうなるだろう?
 御本尊の前ではそれは会わないのだ。調子が狂ってくること大だが、お陰様で今までそういう事は起っていない。皆が皆、誰でも簡単に食事にあり付けるという事でだろうか、指導されたとおりに行動してくれている。
 カトリック教会に入ってみよう。仏教信者など、異教徒が中に入る場合、キリスト様やマリア様に礼を失しないためにも信者を真似て胸で十字を切るのが本当ではないだろうか? 式の美しさ、荘厳さを認め、その場の雰囲気を壊さないためにも協力するのが正しいような気がする。
 ブラジルでは宗教の自由が認められている。色々な宗教が存在している。だからこそ、お互いに他の宗教を認め合うことによって、明るく平和な世界が出来上がっていくのであって、他の教えを認めない、他の民族を迫害する等となると、どこかの国々のように争いが耐えない世界になってしまうのではないか。


人は生まれたからには

サント・アンドレ白寿会 宮崎正徳
 人は生まれたからには生きねばならない。生きていくには食べなければならない。その、人が生きていく上に於いて食べねばならない物に日本は消費税というものを掛ける。ということは、その税を払えないものは生きていけないとも取れる。
 日本は世界の中で経済大国と豪語する。では、日本の政治家どもは本当に日本国民の幸福を思っての政治を行ってきたのか?
 それから見れば、ブラジル国は日本に比べて後進国かも知れないが、政府は本当に国民のための政治を行っていると思う。新夫婦の中に子供が生まれれば、お産についての入院費も全部無料である。そして国から祝儀として、最低給料がもらえる。もちろん、子供手当ても子供が十八歳になるまで出る。貧民の子供であってもその子供の成績によっては幼稚園から小中学校、高校、大学まで全部無料である。
 私の子供も長男次男はサンパウロ大学(USP)を卒業して、今は社会人として上層部で活躍している。
 それから老いては、人が六十五歳になると自分の家の税金がサンパウロではその人の所得によって、無料あるいは半額になる。さらに市内のバス、地下鉄、電車も無料になる。奥地へ行く遠距離バスも無料で行ける。
 医療もお金の無い人はサンタカーザ病院では無料で受け付けてくれる。日本では妊婦がたらい回しにされたというような報道があったが、ブラジルでは考えられない。
 今、日本で行われている事業仕分けには大賛成だ。戦後、六十四年、日本は確かに外国から見れば近代化はしたけれども、国民は働けど働けど税金に取られてしまいゆとりのある幸福とは程遠いものではなかったかと思う。
 管総理大臣、ぜひ頑張って下さい。日本の総理にしか出来ないことがある。それは戦争を放棄した日本しか出来ない。つまり国連本部に行って堂々と今の地球上から戦争というものを無くそうと全世界に向けて演説してもらいたい。アメリカ人だって人の子だと思う。アフガニスタンおよびイラクの戦争だって既にアメリカの近代兵器をもっても五千人近くの戦死者を出している。
 また、沖縄をはじめ日本国の中にある米軍基地に使用する莫大なる国民の税金も事業仕分けしてもらいたいものである。全世界に真の平和というものを知らしめるのが日本の政治家の役目だと思う。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(32) 社会派推理の代表者 黒岩重吾
 黒岩の作品は比較的沢山読んでいる方だし、一応愛読者と言えるかも知れない。特に若い頃「飛田ホテル」「西成山王ホテル」などの都会の場末の三流バーに働くホステス達の生態を温かい目で描写した小品に惹かれて、繰り返し読んだ記憶がある。「どぼらや人生」は自伝的随筆であるが、北満からの脱出体験、株の世界での波乱の生活、小児麻痺の病床経験、釜ケ崎での社会の底辺における厳しい日々等が赤裸々に述べられており、黒岩文学の魅力を探る一つの鍵になっている。黒岩文学の原点を知る上で必読の書とも言えるもの。
 この人ほど数奇な人生を経て作家となった人もいないだろう。二〇代で証券界に足を踏み入れて株で巨万の富を稼いだが、イカもの食いで腐った肉を食べて全身麻痺の奇病に取り付かれて病床生活、さらにスターリン暴落で一文なしになり、大阪西成の釜ケ崎のドヤ街の生活を体験した。トランプ占い、業界紙記者、キャバレーの宣伝部員などを続けながら小説を書き継いできた。
 このような作者の苛酷な人生体験は必然的に世の中から虐げられた不幸な貧しい人々への愛と、社会の底辺から何とか這い上ろう努力する人間への共感となって多くの作品の中に結晶している。
 昭和三六年に「背徳のメス」で直木賞を受けた後風俗作家としてスタートし、現代社会の影の部分にメスを入れ、現代人の持つエゴイズムを愛欲と金銭の両方から描く社会派推理作家となって、数多くの作品を発表して、流行作家の仲間入りを果たす。男女の濃厚な愛欲と陰湿な社会的背景を推理小説的な手法で巧みに描くところに特色があり、作品は数え切れないほどだが、主なものをあげてみよう。
 「腐った太陽」(昭和三六年)では愛する男の死の謎を必死に追求する元コールガール佐伯加津子の執念、「象牙の穴」(三八年)は、産業界の貪欲な欲求に振り回されて穴に落ちていく大学教授の雨森、「太陽を這う」(三九年)のテーマは納得できぬ理由で左遷されたサラリーマン早見が情報新聞記者となり、復讐の鬼となって会社の致命的な秘密を探り出す。「女の小箱」(三八年)は
夫の不可解な行動に不信を抱く美貌の人妻が想像もしなかった国際闇金融レートの黒い渦に巻き込まれ、謎の青年実業家が出現する。「愛の装飾」(三八年)は装飾のない一途の愛を求める若い男女四人の錯綜した愛の関係を描く、黒岩のものでは珍しく純愛ふうな物語の展開だが汚職告発というスリラー的な味わいも含まれている。「夜の駐車場」(四三年)は銀座の一人の夜の蝶・仲代英子が美しい肉体を武器に、遂に新しいバーの経営者としてマダムの座を掴むまでのすさまじい女の闘いを描いた力作。
 一体に黒岩はホステスの生態を好んで小説に取り入れて効果をあげていることもあって、水商売に働く女性に愛読者が多いと言われている。
 それにしても、通産省商業統計によるとバー、キャバレー、ナイトクラブなどの店の数は昭和三五年から四五年の一〇年間に約二万軒から五万軒へと約二・五倍に増加し、売上げ高も五四四億円から四〇五四億円へと約七・五倍に増えている事実には驚かされる。
 黒岩は昭和五〇年頃から以前から関心を抱いていた古代史に挑戦、「天の川の太陽」では吉川英治賞を受賞したほか、「落日の王子・蘇我入鹿」(五七年)「白鳥の王子・ヤマトタケル」(平成二年)などの一連の作品により平成四年には菊池寛賞に輝いている。
 平成一五年、七九才で逝去。


ランピオン物語

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 義賊(ぎぞく)ランピオンが誕生して百余年になるが、東北伯地方の人々は、なおその勇名を慕っている。このランピオンという呼び名は戦闘の最中に地面に落とした煙草をランプの灯で探したのでそうなったと言う。
 一九二〇年、彼が二十二歳の折、カンガセーロ(馬賊)の生活に入ったが、彼の死後、何年経てもその人気は一向に衰えず、その伝説の本は百冊にも及んでいる。
 著者は妹夫婦がレシフェに住んでいるので、それを訪ねた機会にそこから百幾十キロ奥のカルアルーという僻地の町を義弟の案内で歩き回った。
 この周辺は白っぽい痩せ地で、作物を作った畑らしいものは見当たらず、果樹も太い立ち木もなく、禿げた牧場に痩牛がうずくまり、牛の飼料にするサボテンを積んだ牛車をよく見かけた。
 そしてランピオンを首領とするカンガセーロが蜂起して、海岸地帯に甘藷(かんしょ)畑を持った富裕な市民を襲ったという、その当時の社会的背景が分かったように思った。
 一九三八年、ランピオンは間者から警察にその隠れ家を通報された。ランピオンはその妻、マリア・ボニータと一緒に石の上に座り、話をしていた。
 手下の妻がランプの灯かりを認め「囲まれているわ…」と注意したが、妻のマリア・ボニータは笑って「なに、ただのホタルの灯よ」と平然としていた。
 ランピオンは闇の中で正面に据えられた警察の機関銃の射撃を浴びて、一発も撃ち返すこともなく、手下と共に六十二歳で果てた。
 死後、何十年経ても衰えることのない彼の人気の理由は義賊として奪った財を貧民に分け与えたことによるものであろう。
 なお、ペルナンブッコ州の奥地にあるトリウンフオ市では、馬鹿でかいランピオンのコンクリート像が建造されていると聞く。
 高さ四十メートル。ブラジル名物のリオのキリスト・レデントール像より二十メートルも高い像であるという。


一期一会

「バイクで地球を駆け巡る 浦野由紀子さん」
 老ク連には色々な人が立ち寄ります。この浦野さんもその一人。愛用のバイクを駆って、世界を二周目中です。
 よくもこんな華奢(きゃしゃ)なお嬢さんがこんなに大きくて重いバイクを操れるものだと不思議ですが、コツさえつかめば大丈夫との事。
 「動物に襲われたり、事故に見舞われた時、どうするのか?」と尋ねますと「動物よりも何よりも一番怖いのは人間!」だということです。
 また、どんな時でも(道でも順番でも)譲ることによって感謝されこそすれ、争いにはならないとか。全くその通りですね。
 統計によると、今、日本ではこの十年ライダーの増加率は、男性が六%なのに対して、女性は五二%以上だとか。浦野さん、どうぞ、お体に気を付けて、よい旅を続けて下さい。

 バイクで世界二周目中の浦野由紀子です。
 二〇〇八年の六月に日本を出発して、ロシア、モンゴル、カザフスタンに入国。その後はシルクロードを辿ってトルコまで走り、そこから南下。アフリカを縦断し、南アフリカからバイクをアルゼンチンのブエノスアイレスに送り、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、パラグアイを走って、ブラジルに来た所です。
 今までの走行距離(そうこうきょり)は七千キロ。アフリカでは未舗装(ほそう)の道路も多く、バイクのトラブルもたくさんありました。暑い為に木蔭(こかげ)で休憩しようと刺(とげ)のある枝を踏んでしまってタイヤがパンク。修理するとアフリカで買ったゴムのりが悪く、またすぐパンク。新品のチューブと交換したら大丈夫だろうと思って交換すると、買ったばかりなのに古くて劣化(れっか)していてまたパンク、といった感じです。
 それでもパンクならまだ自分で修理が出来るのですが、ある日、ナミビアという国の田舎で、突然バイクが走行不能になる故障(こしょう)が起きました。バイクのタイヤ部品のスポークが全部折れてしまってバイクを押して歩くことも出来ないほどです。幸か不幸か、小さな集落の目の前でした。動かないバイクを集落に止め、壊れた部品を取り寄せる間、私もその集落にテントを張って泊まる事になりました。
 その集落の人口は、十数人。建物らしい建物は三軒のみで、後はトタンで作った小屋のみ。電柱はあっても集落には電気は無く、水道は村に一つで、栓(せん)を開ける時は皆でバケツを持ち寄って使う状況です。
 初めの数日は部品はすぐに届くつもりでいたのですが、ナミビア国内では見つからず、南アフリカに問い合わせ、結局、日本から送らないといけないという事が分かったときには既に十日が経過していました。
 村人たちも最初は私のことを珍しがっていましたが、その頃になるとすっかり一員です。ナミビアにはいくつもの部族がいるのですが、各部族の人がそれぞれの言葉で挨拶してきます。ヒンバ族という部族の女性は半裸で体中に真っ赤な泥を塗っていて、髪の毛も泥で固めています。私の黒く長いしかも縮れていない髪が不思議なようで、よく触ってきては何やら言ってきます。英語の話せる人が通訳してくれた所、「どうしたら、縮れないのか?」と聞いているとのことでした。ヒンバの女性は泥を使って髪をいくつかの束にしているので、私の髪の毛も何かを使って縮らせないようにしている思っているようでした。
 また、集落には時計がありません。話をして居て何時頃という表現では太陽の位置を指して、「このぐらい」で言います。「十二時には帰る」と言っても、手を真上に上げて「このぐらいに帰って来るんだな」と言い直されます。それに電気もないので、夜は月明かりが頼りです。トイレ(と言ってもその辺の草むら)に行くのも月がないと大変。でも、満月の夜には、とうもろこしを発酵させて作ったビールを飲み、たわいもない話をして、盛り上がって歌を歌ったりします。
 その月が満ちて、また欠けて、五週間たってやっと部品が到着しました。出発する時には皆が「良かったね」と喜んで見送ってくれました。部品が壊れなければ、そこに人が住んでいることさえ気が付かずに通り過ぎてしまうような小さな村です。もう二度と行くことはないかも知れませんが、私にとってはアフリカのふるさとになりました。


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