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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2010年10月号

2010年10月号 (2010/10/09) 岡本宇志男老元軍人

レジストロ春秋会 大岩和男
 初めて日本に行った一九九〇年のことである。(いろんな紛糾があった後に?)落ち着いた先は愛知県豊橋市の二川町であった。東も西も分からぬ初めての日本。どこを見ても珍しく新鮮に見えたものだった。
 数日間は会社がアパートを見つけるまでホテル暮らし。その間、外国人登録、住居届、働く会社の所在地などを教えられた。
 やっと会社がアパートを用意してくれたのが二川町であった。アパートから静岡の会社まで行って仕事。日常生活にも戸惑うことばかりだった。そんなある日、自分たちの住む地域をよく知ろうと、同居している大日向今朝男君と連れ立って、ホビーラ百貨店傍の坂道を登って行った。疣(いぼ)取神社という変わった神社の入り口に鳥居があって、小石を拾ってその鳥居に投げ上げ、小石が鳥居の上に止まったら幸運があり、疣が取れるとか。取ってもらう疣もないが、試に投げたがそう簡単に止まるものではない。
 小さな町だが、歴史の古い町で家並みは徳川時代の建物がそのままあるというし、東海道五十三次の三十何か所という標柱も町内にあることを後で知った。
 その高い所から見ると、東海道本線に沿って高架堤の新幹線が眼下に見えて珍しかった。豊橋港の方まで遠望できた。その帰り道、ある家の庭先でたくさんの鉢植えの植木にミニ水車を回しながら水をかけている所があった。珍しいので二人で見ていると、主人が出てこられて、見慣れぬ私たち二人の様子に「どちらから?」と聞かれ、ブラジルから来た旨を話し、勝手に庭木を見ていた無礼を詫びた。
 その人はそれは意に介する風もなく、ブラジルから来たということに大変関心をもたれ珍しがって、ブラジルの事を次から次に聞かれるのであった。そうして「自分はブラジルに憧れていて、一度は行ってみたいと思っていた」と話されるのだった。
 そして、自分は岡本宇志男と名乗られ、元軍人で中南支で戦争体験をしてきて、今でもその当時の軍人仲間を集めてクラブを組織し、この中で会合を開いていると指差されたのは、使い捨てられたバスの車体だった。内部の座席を補修して使っているという。この人の希望は日本の牧草をブラジルに持って行って牛を飼ってみたいというのであった。生死をかけて支那大陸を駆け巡ってきた人だけあって、同じ日本の人でも考えが違うような人で、それだけに外国から行った私たちに対しても、理解が深かったように思えた。
 その後は折あるごとに話し合ったし、私たちのアパートにも訪ねてこられたこともあった。また、この方の車に便乗させてもらったことも再三あった。そういう優しい人だったが、お気の毒に奥さんがひどい痴ほう症で家を空けることができないとこぼして「婆さんがなぁ、ウンチを漏らしてそこら中を歩くんで、わしゃ、それを拾って回らんならんのや」と洩らしたことがあった。
 それから、私は一度ブラジルに帰り、次に行った千葉からも、さらにブラジルに帰ってからも何回となくお手紙を差し上げ、さらにお返事も頂いていたが、一九九八年の賀状が最後で返信は無くなってしまった。
 初めて行った日本で強く印象に残った岡本さん。もし、鬼籍に入られたのであれば、そのご冥福を心から祈るものである。


逆派遣社員となって

サンパウロ中央老壮会 遠藤永観
 ほんの二、三年いて、戻るつもりが十五年を超す長期間になってしまった。年老いた母を置いたままであったから心苦しかった。だが、娘たちが次々と大学に入学する年になるのに、私の収入ではその月謝を支払うのはおぼつかなかった。
 サルネイ、コロールと続いた悪政時代で友人に相談したら、「行けるなら、行ったらよいよ」と言われ、迷わず某進出企業の派遣という形での採用テストを受け、二週間の実習後、茨城県の車部品工場に配置となった。同行者には、某大学の機械工学を出た者もいた。また、仲介をした業者も以前からの知人で、社会的に信用されていた人だったこともあって安心して訪日できた。
 日本での待遇は想像以上であった。二年半ぐらいは現場作業員として身体的には少々きつかったが、まだバブル崩壊の波が届いていない領域だったため、楽しく働けた。
 ブラジルで日本の公的機関に働いていたという自負もあまり気にならなかった。そのうちに妻と十一歳だった三女を呼び寄せた。三女は幸い日本語の読み書きもかなりできたので、日本の小学校に入れてもらえた。
 バブル崩壊の影響がようやく身近に押し寄せてきたころ、いったん帰国し、再び訪日。大手のF食品会社に準社員待遇で入れたから恵まれた方だったろう。
 また、結城市の工場にいた頃、小企業の社長に頼まれて、寮の同僚を工員として世話をした。名を廉太郎というので、平凡な名前しかもらえなかった私は彼をからかって「お前は名前負けだ。『荒城の月』の作者と同名だなんて」と言っていた。小柄ではにかみ屋の二世だったが、在日中にみるみると日本語が上達した。その彼が「自分の姉はヴァリグ航空のスチュワーデスだった」というから、また面白くない。どうせ嘘だろうと高をくくっていたら、その姉君が本当にやって来てしまった。悔しかったが興味津々でヴァリグ勤務当時の色々な話を聞かせてもらった。その中の話である。
 ある時、ロサンジェルス経由日本行の機中で女性客が産気づいてしまった。ジャンボ機の多数の乗客の中にお産を扱える医師か助産婦がいないか、アナウンスを流したが誰一人申し出る者がいなかった。
 その間にも女性の状態はどんどん進む。ロスまでは到底持たない。パーサーは比較的先輩の彼女が対応するよう命じた。このような場合に備えて最低の予備知識は教育されていたのかは聞き洩らしたが、限られた乗務員の中から助手として男性が一人当てられた。しかし、いよいよ出産が始まり、激しく身もだえする産婦に付き添っているうちに、この男性は気を失って倒れてしまった。仕方なく、かの姉君は一人で産児を取り上げ、無事に出産を終えたそうである。その伯人女性から喜ばれたのは言うまでもないが、その女性は生まれた子の名前を登記する際にこの日系スチュワーデスと同名にしたという。
 さて、大仕事を経験して、彼女はロスからサンパウロ向けの便で戻ったのであるが、着いて翌日、出社すると、滅多(めった)に行くことがない部長室に呼び出しを受けた。何を聞かれるのかとびくびくしながら部長室の扉をたたいた。そこには満面の笑みをたたえた部長が待っていて、入るなり彼女を大きく抱擁して、抱えきれないような大きな花束を差し出したとの事であった。話し終わった横でそれまで私に信じられていなかった廉太郎君が誇らしげな顔をしていたのを思い出す。
 蛇足であるが、その後も彼は前出の転職先の社長に気に入られて勤務を続け、自前で近くにアパートも買ってしまった。出稼ぎ黄金時代の事であった。


海外から見た日本と日本人

セントロ桜会 梅崎嘉明
 自分の国を離れて住むと自国の長所短所がよく見えるという。
 私はこの国に七十余年住んでいるが、いまだ帰化もせず、自国は日本だと思っているし、日本人の誇りを持って生きている。
 ところが、最近はこの誇りは何なのだろう?と、疑問を持つようになった。
 テレビなどで日本の動向を観察していると、日本人として誇るべき何も見えてこない。政治家の政治も稚戯(ちぎ)そのものだし、外交の面でもさっぱり映えない。アメリカの指図(さしず)通りに動くばかりで、例えば、普天間基地なども沖縄県民を無視して、鳩山政権は崩壊(ほうかい)した。その失策を肝に銘ずることもなく管政権は鳩山政策を踏襲して窮地(きゅうち)に落ち込んでいる。
 あっぱれと拍手を送りたいのは、社民党の福島党首で、女性ながら罷免(ひめん)をも顧(かえり)みず、沖縄県民のために基地反対を叫び続けた。沖縄県民はこぞって福島党首に感謝すべきである筈なものを、今度の選挙では社民党はあまり伸びなかった。沖縄県民はこぞって福島党首を応援すべきだと思っていたのに、県民意識はどうなっているのか。こんなことでは政府も、国民の精神意識も、二十一世紀の世界に君臨できるのだろうか。
 かつては一等国民だと自負して世界を震撼(しんかん)せしめた国民精神はどこに行ったのか。負けたからといって、「国旗」も「君が代」もダメだと言って安っぽいデモクラシーに酔って自国を見失ってしまうようでは、マッカーサーが「日本人の精神能力は十二歳の少年に等しい」と言ったのを未だに脱却できていないのではないか。負けても日本人だという毅然(きぜん)としたアイデンティティを持たなければ、世界の盟主(めいしゅ)にはなれない。アメリカという「虎(とら)の威(い)を借りる狐(きつね)」であっては、中国や韓国からやがて見くびられる日が来ないとも限らない。
 唯一言えることは経済面で世界八強の中に加わっていることで、金にものを言わせて後進国の機嫌を取っているが、これとて大きな国債を抱えての空(から)威張(いば)りしているに過ぎない。
 更に言える事は、あの小さい国で経済大国を保つためには企業や国民がかなり無理をしている。働き蜂(ばち)と言われ、能力以上の無理を強いられ、険しい世相の中で生き残るために他の企業に負けるな、追い付け追い越せと社員に鞭(むち)を打っていないか。
 私の知人の息子に優秀な青年がいた。家は貧しかったが、頭がよかったので、親兄弟の協力によって大学を出してもらった。大学は出たが、この不景気でいい仕事にありつけない。経済を専攻した彼は事務の仕事を求めたが、どうしてもありつけず、自動車部品の販売をすすめられた。努力をすれば、普通の給料より良い収入があると言われたが、口下手な彼にはさっぱり能率が上がらなかった。社主からは「一か月間にこれこれの注文が取れなければ、会社の収益に繋がらない」と解雇されてしまった。
 彼はまた何か月も職を求めて歩き、やっと事務の仕事を見つけたが、不景気で給料は滞納(たいのう)、その上一年ばかり後、会社は倒産してしまった。そんなことを何回も繰り返した彼は、生きる気力をなくしてしまい、「せっかく大学を出してもらったのに、この体(てい)たらくでは申し訳がない」と自らの命を絶ってしまった。
 その青年は意志が弱かったとも言えるが、日本には年間に三万人もの自殺者が出ているという。この事態は何を意味するのだろうか?
 要するに個々の人間が時流に流されない確固とした自分を持たなければならない。政治や企業に振り回されたり、上司からの無理強いにもめげることなく、金の奴隷(どれい)にもならず、自分の能力、自分の家庭、自分の生活をよく見きわめ、余裕のある精神状態で生きられたら、あたら尊い生命を捨てることもないだろうし、日本人の誇りを持って世界の皆さんと肩を並べることができるのではないだろうか。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(35) スパイ小説を開拓 結城昌治
 戦後、日本の推理小説界にブームを巻き起こしたのは松本清張の「点と線」「眼の壁」であった。その後、この勢いに刺戟されて数多くのミステリ作家が誕生したが、その一つに結城昌治、佐野洋、多岐川恭、樹下太郎のグループがある。結城は昭和三四年に「エラリー・クイーンズ・マガジン」日本語版の第一回短編コンテストに「寒中水泳」が入選して作家となる。「ひげのある男たち」(三四年)「長い長い眠り」(三五年)などで本格物とファルスの結合に成功、「ゴメスの名はゴメス」(三七年)で戦時下のサイゴンの雰囲気がよく出して日本のスパイ小説のジャンルを開拓するが、本作は直木賞の候補作に推されている。
 その後、「戦旗はためく下で」で四五年に直木賞を受けたが、これは四七年に深作欣二監督で映画化されている。戦後、ニューギニアで敵前逃亡の罪で銃殺され、戦死とは認められずに年金も支給されない、と知らされた未亡人。納得のいかない妻は以後二六年に亘って不服申立書を出し続けるが無視される。しかし、遂に部隊の生残りで亡夫について語ってくれそうな四人を見つけ出し、彼等の口から真相を聞き出していく。飢餓の地獄、軍隊残虐性、そして異常な上官を正等防衛で殺したことが明らかになっていく。
 結城の作品はユーモア、スパイ、悪徳警官、私立探偵ものに大別されるが、私流推理小説論で筆者は「作品のスタイルは主題や素材によってその都度最も適するものを選ぶので、いかなる時も常に自分の歌を歌っているつもりである。下手は下手なりに、それは私なりの職人気質につながっている」と述べている。
 初期には「ひげのある男たち」「長い長い眠り」「仲のいい死体」などのユーモアがあってとぼけた味の作品が多い。スパイものは数は少なく、「ゴメスの名はゴメス」の他に「世界でいちばん優秀なスパイ」が見当るくらい。悪徳警官ものでは「夜の終る時」「穽」などがあり、特に前者は三九年の日本推理作家協会賞を受けており、面白い。私立探偵ものは、いずれもハードボイルド・タッチで「暗い落日」は私立探偵真木が無名のシャンソン歌手の失踪事件を追う。もう一人の私立探偵、久里と佐久のコンビもあり、「死者におくる花束はない」「死体置場は空の下」のほか、コールガールや新薬密売組織のカラクリを摘発した「死の報酬」などがある。
 このほか、荒廃した北九州の炭坑地帯に現実に存在した集団窃盗団から着想を得た「白昼堂々」、平穏な日常生活に襲いかかる悲劇を描く「幻の殺意」は両作とも映画になっている。人物伝としては「志ん生一代」を残している。
 また、結城は俳人としての一面もある。本人は二四年から二年ほど肺結核療養生活を送り、左右両側に胸部成形手術を受けていた。 ちなみに日本では肺を患った作家がかなり多く、堀辰雄、島木健作、吉行淳之介、安岡章太郎、福永武彦、藤原審爾、それに俳人では正岡子規、川端茅舎、石田波郷などがそれで、結城もその系列に入ることになろう。結城は平成八年一月、六八歳で世を去った。


一期一会 「ここにも、そこにもブラキチ!!」 加藤進さん

 私がブラジルに来て老ク連に草鞋(わらじ)を脱いだのが二〇〇五年一月で、ポルトガル語の勉強をするためでした。二月から語学学校の初級クラスが始まったのですが、そこで同じクラスの生徒だったのが、坂本秀雄さんです。
 彼は男の割にはおしゃべりでした。授業中はよく先生に質問をし、休憩時間にはクラスメイトとおしゃべりをしていました。
 彼の話によると、二〇〇三年に奥さんと子供を連れてブラジルに来たのですがそれはキリスト教(プロテスタント系=エバンジェリコ)の布教のためということでした。秀雄さんはそんなに背は高くありません。一六五センチ位でしょうか。しかし、体は筋肉の塊みたいです。学生時代、ヨットをしていて国体に出場したこともあるそうです。服装はいつもサンダルに短パン、上はTシャツかアロハという彼独自のファッション感覚を持ち合わせていました。何でもハワイで洗礼を受けてから、ずっとその服装だそうです。
 老ク連にも度々顔を出しておりましたがとても宗教家とは見えませんでした。
 奥さんの恵美子さんは山形県米沢市の出身。パライゾ区の自宅近くの幼稚園で保母のアルバイトをしていました。長男の晴(はれる)君は二〇〇〇年米沢生まれ。性格はマイペースでおとなしく、物事に動じないタイプ。スポーツよりは音楽、特にピアノが好き。次男の羊(たりた)君は二〇〇三年ブラジル生まれ。負けず嫌いだが人には優しく面倒見がよい。走るのが得意。三男のダウィ君も二〇〇七年ブラジル生まれ。次男に似て負けず嫌い。よく次男とけんかする、人見知りをしない性格で、とても賑やかな家族でした。
 その後、私は坂本一家と親交を深めていき聖書勉強会やシュラスコ、誕生日会、またサッカーの試合を見に行ったこともありました。土曜日には礼拝にも参加し、それによって他の人とも知り合うことができ、ブラジルでの輪が広がっていきました。そして二〇〇七年には坂本家に居候することになりました。しかし、二〇〇八年には恵美子さんの家族に不幸があり、私も事情があって、日本へ帰ることになりました。
 帰国後、私は東京で、彼らは米沢での生活となり、電話やメールで連絡し合い、今年の八月、夏の真っ盛りに私は坂本家の皆さんに逢いに米沢に赴きました。
 久しぶりに対面した子供たちはそれぞれに成長し、昨年誕生した長女ほまれちゃんにも会いました。もちろん秀雄さんも恵美子さんも元気でした。
 帰国当初は、子供たちは皆ブラジルに帰りたがり先のW杯でブラジルが負けた時は泣いて悔しがっていたとか。ブラジル大好きな少年に育っていました。
 一週間滞在し、東京の私の家へ行き一泊し、翌日、富士山へ行きました。秀雄さんは相変わらずサンダル履きで息子三人もサンダル履きで富士登山へ出発。しかし、五〇mほど登った所で断念。やはり、サンダルでは無理だったようです。
 私が今回また短期間ですが空手の勉強にブラジルへ来る事になった時、彼らはとても羨ましがりました。秀雄さんには日本にもたくさんいい物があるのに「ぜひブラジルのあの頃のシュラスケイロを買って来てくれ」と頼まれ、毎日サンパウロの町中を探し回っております。
 ブラジルで坂本家と知り合って五年余り。これからもこの愛すべきブラキチジーニョ達と折に付けブラジルの事を話題に乗せて行くことでしょう。


あれから四十九年

サンパウロ鶴亀会 相沢絹代
 去る九月十九日、花嫁移住五十一年、コチア青年五十五年を記念して、サンパウロ近郊の国士舘センターにて盛大な式典が行われた。ざっと見て、五百人は集まったのでは…と思っていたが、新聞によると六百人余りとの事。大きな会館はあっという間に人の波で埋まった。
 私がブラジル丸で渡伯したのは、花嫁移住が始まって二年目の一九六一年。不安と希望の入り混じった私たち花嫁九人は船会社の配慮で、鉄の扉の付いた特別の部屋に割り当てられた。異性が近付かないようにとの事らしい。船内での楽しい思い出の数々。このままブラジルには着いて欲しくないと思っていたが、とうとうサントス港に着いてしまった。
 あれから四九年。いろいろと苦しい事もたくさんあったけれど、みな過ぎ去った事。今は楽しい事ばかり。
 あの頃の瑞々(みずみず)しい花嫁さんたちも頭に白いものが目立ち、しわも増え、どの顔も明らかに年月の長さを感じさせられた。杖を突き、孫に手を引かれ、やっと来たという人も少なからずいた。五十年の長い長い歳月。渡伯以来、一度も逢ったことのない人たちに逢いたいと思っていたが、さすがにこの大勢の中から探すことは無理難題。ちょっぴり期待外れではあったが、会長より心のこもった感謝の言葉と豪華な食事を十分に頂き、楽しく有意義な一日であった。


与古田先生の沖縄話

 天ぷらというと、高級なイメージがありますが、沖縄の天ぷらはむしろ庶民的なのが売りです。
 裏通りの「天ぷら屋」という小さな看板のお店には、狭い厨房にオバちゃんが一人。
 メニューは「魚天ぷら」「イカ天ぷら」「野菜天ぷら」「芋天ぷら」がポピュラーです。
 一個四十円から六十円でお持ち帰りが普通ですが、店内でも食べる事ができます。
 店内のテーブルには本土ではまず見かけないものが置いてあります。
 それは…ウスターソース!
 ウチナンチューは「てんつゆ」で天ぷらを食べるという習慣が余りありません。
 天つゆを作るのが面倒くさいからか、それとも味の濃いウスターソースが好きだからか、理由は定かではありませんが、普通にウスターソースをつけて天ぷらを食べます。
 最近では食の日本化が進んで、天つゆも浸透していますが、ウスターソースは根強い人気です。
 また、沖縄の天ぷらは衣がしっかりしています。薄くてサクサクとは程遠い、腹持ちの良いムシャムシャと食べられるような食感です。
 沖縄の食堂または天ぷら屋へ行ったら、一度ウスターソースで食べてみて下さい。
(「沖縄ちょっと昔話」ブログより許可を貰って転載)


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