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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年4月号

2011年4月号 (2011/04/08) 東北関東大震災、心よりお悔みとお見舞いを申し上げます

がんばれ日本!強い国民

サンパウロ中央老壮会 纐纈蹟二
 三月十一日の史上最大のマグニチュード9の大地震に襲われた東北地方は福島県では二十三メートルの大津波を観測した由で、太平洋沿岸の市町村は全滅に近い大被害のニュースに唖然となってしまった。
 私の息子は三人日本にいる。一人は神奈川の横浜近くに、もう一人は千葉県の富里市で成田空港に近い乳酪製品会社の正社員として十七、八年勤めている。早速、電話をしたが通じない。日曜日に向こうから電話をしてきた。三人とも無事を確かめたと言ってきた。物凄い揺れで立ってはおれず四つん這いになったが揺れが長く続くのでもう駄目だ。事によると死ぬかもと思ったという。
 NHKのニュースを見ていると、与野党の諮問でこの大災害の対応についての話の中に衆議院の解散だの、議会延期などと論じていたが、この際皆政府の方針に賛同してこの大災害を如何にして対処するかを考えて貰いたいと思ったものである。どの議員も二口目には「国民のため」とか「国民の生活の安全」と言うが、実際は党派の方針だなどと足の引っ張り合いをしている感じである。
 福島県では地震の被害より津波の被害が甚大で木造家屋はほとんど流されてしまったようで住民の多くは避難所生活をしているようである。
 戦後訪伯した人の言葉だが「日本人は窮地に強い国民である。だからこそ今、世界第二の経済大国にもなった。日本人の持つ負けじ魂がそして愛国心が日本を再建した。原動力は大正の人間と昭和一桁の人間が頑張った為である」と言っていた。彼も外地より復員して命がけで働いたと言った。
 この度の未曾有の大災害は東北関東を含み十四県に北海道も入る大被害だ。戦後の復興同様今回の大災害に対し、平成、昭和の人間が頑張ってくれることを期待し希望を持つ者である。
 群馬県の草津にいる息子からも連絡してきた。彼の所では四つん這いになる程の揺れでなかったが恐ろしい思いをしたと言った。そして津波の被害者はテレビで発表している人数の何十倍で二万人以上になるかもと言った。
 この国難を大和魂を発揮し一日も早く立ち直ることを信じている。東北も関東も頑張れ!そして、日本がんばれ!とこのブラジルより声援するものである。
 私どもブラジル移民とその子孫は地震の無い国、台風のない国、そして戦争の無い国に永住して幸せである。この大災害である天災を神の試練と受け止めて頑張ってもらうことを願う。
 また原発のニュースはあまりにも専門的で私には判らない。放射能の漏れも大津波の副産物で国家として重大な問題である。大過なく納まる事を希っている。日本人は強い国民である。団結心がある。頑張ってくれることを信じている戦前の老移民の一人である。
 尊い生命を失った人たちのご冥福を祈ってやまない。合掌。


がんばれ!東北

福島県安達郡東和町出身 遠藤永観
 私の東北地方へのイメージは、災害のない、安心できる地方であった。
それが子供のころ、海水浴に行った福島県の海岸も含めて、一瞬の内に波に飲まれてしまった。被害に遭われた海岸住民の皆さんには本当に気の毒と言うほかはない。
 二次災害とも言える原子力発電所事故は危険性のある物質を搬入するため、海岸に造られるのは分かるが、対地震の設計は万全を期しながら津波への対策を考えなかったのは返すがえすも残念である。
 地震があっても必ず津波が起こるとは限らないため、対策から逸脱したに違いない。しかし、津波の起こる少なくない確率数から言うと、逸脱しなかったはずである。
 原発がある大熊町の隣の浪江町の海岸には、私が小学校のころ夏休みの臨海学校として数回連れて行ってもらった。潮の香りいっぱいの海の家のござ敷きに泊まりながら楽しんだものだ。「何にも無かった」あの当時としては精一杯の贅沢であった。
 家族移民として渡伯後、福島県費留学をさせていただいた折、大熊町の壮大な原発施設を見学して、日本のエネルギーの重要な役割を担うと聴いて大変頼もしく思ったものである。
 その放射線汚染が心配される東北の東側地帯であるが、報道では鉛の防御服を着た百八十人の勇敢な作業員が現地に向ったそうであるから(フォーリャ紙)、必ずや危険が食い止められ、放射能も早急に沈静し、元の平和な東北地方が戻ると信じている。
 そして、今度こそ大津波にも耐えられる土木工事を施した地域に原発を建てるべきである。このような危機に遭遇したときは最後まであきらめないことである。あきらめずに命綱を持ち続けた人が生き延びるし、日本は今までも多くの災害や危機を乗り越えてきたのだから。
 災害が起こった後、多くの日本の親戚や友人に電話をして安否を確かめた。幸い、私のまわりの人には被災者はいなかったが、水、電気、交通機関が停止して思うように生活できないでいると仕出し屋をしている友人も困難を訴えている。
 ブラジルからは何もできなくて歯がゆいが、多くの日系団体で募金活動がはじまっているので、これに応じて送金をした。
 また、我が家では亡くなられた方への冥福と被災者の一日も早い復興を祈願して毎日十五分間のお祈りを捧げている。 
 被災者の方々も、早く往日の姿を取り戻すよう頑張ってほしい。春はまた必ず来るのだから。


過去最大の震災に驚愕

宮城県岩沼市早股出身 岡崎幸雄
 この度、東北関東大震災のニュースにただただ驚いております。このような大震災と大津波は過去には四万二千年前後にあったということを考古学的に申しております。それは旧石器時代の出来事で、その後、色々な時代を経て現代に至っております。
 私の生家は旧名取郡玉浦村で仙台平野の一角、名取平野に在しております。先祖代々四、五百年前からこの地に住んでおりますが、未だかつてこのような災害に見舞われた事はありません。三陸海岸は昔より中、小規模の津波が来ており、明治二十九年には波の高さが三十八メートルという三陸津波も押し寄せてきたとの事ですが…。
 今回の地震と津波はおもに仙台から北の方が被害が大きかったようで南よりの私の家は海から三キロ程離れておりますが、床上三十センチ位の浸水ですみ、幸いにも部落では死者はいなかったとの事です。
 同じ村ですが、海辺には五つの部落があり、そこは全壊したとの事。大変お気の毒だったと思っております。
 私たちの海岸には昔から米どころなので、防潮林が幅三百メートル、長さが五十キロメートルに渡って植林してあり、また、伊達時代に掘った幅百メートル、長さ百キロメートル前後の運河、貞山堀があります。
 小さな津波ならばそれによって遮られたのかも知れませんが、今回の大津波はそれをも上回るものだったのでしょう。
 亡くなった方々には誠に残念であります。心から冥福をお祈り申し上げます。また被災地の一日も早い復興を願っております。


チリ地震のことなど

福島県相馬郡小高町 松平りき子
 この度の東北関東大地震・津波の被災者の皆様方に、心からのお見舞いを申し上げます。宇宙中継放送のNHKテレビの生々しい被災地の画像を見る度に、自然の猛威の怖ろしさに人々はただ呆然としてなすべきことも知らず、我々の無力さを痛感させられるのみです。体験された方々は、あっという間の出来事だった、もしくは想像を絶するものだったと語っておられます。さらにこれからは月日が流れるとともに益々惨事の大きさが明らかにされてきて、
胸が痛みます。
 私は三月十一日(金曜)の早朝、二時半頃でしたか、尿意をおぼえて起きたのでしたが、眠れない時のくせでテレビをつけたところ、大津波が市街地を呑み込んで田園地帯に侵入していく、信じられないおそろしい映像が目に飛び込んできました。福島県というアナウンサーの説明もあったせいで、そのまま画面から目が放せずとうとう夜まで見てしまいました。
 私は福島県の出身で、一九六四年に家族
とともに十九歳で来るまでは、相馬郡小高町に住んでいました。丁度東京オリンピックが開かれている最中のことです。船の上で日本選手達の活躍ぶりをニュースで聞いていました。
 私が十五歳の時の思い出です。チリ地震の余波だったのでしょう、故郷の小高町浦尻の浜で津波の現場を目撃したのを覚えています。海辺から五十メートルほど離れた小高い丘に、やはり予報でもあったのか、町中の者が皆集まってきました。海底の砂を堀り起こしながら、岸に寄せてきたどす黒い灰色の巨大な波のかたまりが沖へ引いて行ったのを今でもまざまざと思い起こすことができます。おそらくは、五百メートルほど沖まで海底が露出し、若い漁師の兄さんたちは、波打ち際に打ち上げられた魚群を手掴みにして持ち帰っていました。家屋などの実害は余りなかったようでしたが、海水に浸った田圃は二年ほどは植え付けられませんでした。
 私は男五人、女二人の末娘で、姉は二十年程前に亡くなりましたが、次兄の和夫と私のすぐ上の五男・智が福島県に住んでいます。特に智は年齢も近い上に、十年間のブラジル生活を体験していることもあって、訪日する度に色々と世話になっています。
 今回も彼の消息がとても気になって、少しでも情報が知りたくて何度も電話しましたが、どうしても通じません。ようやく姉の娘の夫・永沢が警察官だったことを手がかりに、彼の十年前の勤務先だった平市の警察署に電話したところ、同じ福島県下の相馬署で働いていることが判明、電話が通じて兄たちの消息を知ることが出来ました。それによりますと、双葉郡浪江町幾世橋の永沢一家は比較的情報が早かったせいもあってすみやかに避難していたので命に別条はなかった由。しかし、家は流されたそうです。また、双葉郡大熊町夫沢の智兄は幸い津波の被害もなく家屋は何ともなかったそうですが、心配なのは原子力発電所の放射能洩れによる被害の可能性が現実味をおびてきたことです。東海第一発電所から三キロほどの家なので、もし原子炉の故障などという最悪の場合のことが考えられなくもありません。何しろ日本人は世界で唯一の原爆被災民なのです。放射能という言葉には過剰意識が働くのは当然のことでしょう。チェリノブイリという前例もあることですし、楽観は許されません。
 史上最大と言われる大地震の余波は想像以上に拡がりそうで、被害が大きくならずにすむよう祈るのみです。東京電力を中心とする政府のすみやかで適切な対応に期待したいと思います


ふるさとは、いま

岩手県奥州市岩谷堂出身 和賀希耕
 驚きました。オモチャのような車が濁流に流されていく。それにつきそうように船までが一緒に流されている。と思うと翼の長い飛行機までが移動している。まるでシネマ「日本沈没」をみているような悪夢。これが今現実に起こっている私たちの故郷の姿だと思うと唖然とするばかりでした。
 亡くなった人たちの悲痛な声なき声。生き残った被災者たちの肉親を捜す叫び。地球の反対側まで聞こえてきそうです。
 私の故郷は岩手県の内陸部に位置する奥州市岩谷堂という北上山地に寄り添った水田地帯で小さな田舎町です。
 大地震発生の後は電気がなくなり電話が通じなくなり、現地では情報が入らず何が起きたのかも分からず大変心配したそうです。それが数日間続き、ブラジルからも連絡が取れなかったことで災害の大きさを感ぜずにはおられませんでした。
 ブラジルの私たちの方がNHKのTV、現地のTVでいち早くマグニチュード9という大地震発生と津波の動きを把握でき、情報を確実につかんでいたようです。
 私の故郷の家族や家などには被害はなく安泰だったそうで感謝しております。
 子供の頃、海を見に行くのだといって、クラブ活動などでバスで汽車で北上山脈を越え、港町の大船渡、釜石、気仙沼の町々を訪れたのを懐かしく思い出されます。はじめて海を見たのもこんな時でした。
 あの美しかった平和な港町、海浜、緑の木々を怒涛そのもので襲う津波の恐怖、土煙を上げて崩れていく町並み、この世の地獄のようだと言ったら言い過ぎでしょうか。
 TVの画像でですが、しかと見届けました。たった一人で大きな川の堤防を急ぎ歩いている女性。そのすぐ後ろから白い波を逆巻きながら押し寄せてくる津波。あの女性は助かったのでしょうか。なぜたった一人であの時間歩いていたのでしょうか。
 家を失い家族の行方も分からないという哀しみの境地にある皆様方の一日も早い立ち上がりを祈らずにはおられません。
 我々ブラジルの日系コロニアもできるだけ多くの義捐金、救援物資を送り、声援いたします。
 日本人の叡智と美しい愛情と勇気と行動力を結集し、一日も早い災害からの復興をめざし、奮闘されることを祈っております。
 最後に災害で亡くなった方々の冥福をお祈りいたします。合掌


一日も早い復興を

セントロ桜会 大志田良子
 十一日(金)朝、リベルダーデのラジオ体操から帰ってみると、病床の主人がサーラに座っているのでびっくり。「大変だよ。東北地方が大地震なんだよ」と言うのです。
 そのまま私もテレビを見ていると、映像に移ったのは、ちょうど津波が建造物から車、あらゆるものを飲み込んで流れゆくすさまじさ。驚きと悲しみに絶句の状態でした。未だ何処の地方とも分からずにテレビの前を離れることが出来なかったのです。日本時間の午後二時四十六分頃と言えば、わずか四、五時間しか過ぎていないわけです。どうして平和な日本に…。天災とは言えあまりにも残酷過ぎると、誰をも恨むこともできないしうちに悔しさ一杯でした。
 すぐ岩手の方に電話を、と思い、主人の出身地の盛岡と私の生まれた田舎町の金ヶ崎町へ電話をしましたが、全然通じません。東京の親戚や名古屋の娘の所と、受話器を手から離さず頑張ったのですがどこもダメでした。もうあきらめて、日本からの知らせを待つよりほか仕方ありません。
 四、五日してやっと名古屋に住んでいる娘から第一報が入りました。盛岡も金ヶ崎方面も震度が強かったのですが、皆、無事という事で、ほっと安心した次第です。
 ところがまだまだ余震が続いており、日本列島で安心は許されないと思いました。そして今度は原発とか言う大きな問題が起こって、その方も心配です。いずれにせよ、これも地震による被害であるのですが、専門の方々も必死の対応を尽くしている事。一日も早く国民が安心して生活できるように復興を願うのみです。
 最後に地震によって亡くなられた皆々様のご冥福を心からお祈りいたします。そして何万という被災者の皆々様のご健康を心より願い、筆をおかせて頂きます。


桜の花

サンパウロ中央老壮会 栗原章子
 日本の象徴の桜の花。それは日本の自然とそこに住む人々が育んできた温かい美。その桜の花が咲くのももうすぐ。
 現在、日本は大地震、津波、福島の原子力発電所の放射線漏れといった惨事の渦中にあるが、日本人が愛する桜の花が人々の暗く沈んだ心を少しでも和らげてくれることを心より念じている。
 私が初めて桜の花を見たのはもう三十数年前、文部省の留学生として日本へ行ったときだった。ちょうど桜の花が満開の頃の四月二日か三日だったと思う。留学先の武蔵小金井にある東京学芸大学の東門から入っていくと、桜並木があり、優しい淡い色の花、桜がきれいに咲いていた。日本の春のやわらかい日差しを浴びて、薄いピンク色の花が咲いていた。花の色は確かに淡くてきれいなのだが、それと同時にブラジルのさんさんと降り注ぐ太陽の光を浴びて、真っ黄色に咲き誇るイペーの花と比べて、「色あせた花だなあ」と思ったのも確かだ。しかし、やわらかい日差し、優しい色の花は、底抜けに明るいブラジルの雰囲気と比べて、東洋を感じさせる落ち着きと暗さを私に感じさせた。そのときになって、初めて、谷崎純一郎や川端康成の文学作品にただよう「薄明かりの中の美」を理解したように思われた。日本を肌で感じていないうちは、何て暗い病的な作品だろうかとしか思っていなかったのだが。
 その国に行き、肌で雰囲気、様子、人々を取り巻く自然環境、人間関係を知って、初めて理解できるものが沢山あるのだと感じた。それが私が留学中に得たいちばん大きな収穫だったように思う。
 多くの自然災害に見舞われながらも雄雄しく粘り強く生きていく日本国民。今回の惨事もきっと知恵を出し合って、日本人固有の「和」をもって乗り切っていくことと信じている。


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