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たこ焼きマンが行く
     たこ焼き「旅日記」  (最終更新日 : 2009/05/25)
サンパウロ(老ク連)篇 [全画像を表示]

サンパウロ(老ク連)篇 (2005/07/14)  ◎プロローグ

 たこ焼きマン1号、松本から笹井に電話があったのは2005年4月20日ごろであった。
 1号の電話は「じつは老ク連で4月の30日にビンゴ大会が開かれるのだが、この席上、まあ会場が賑やかになればということから、たこ焼きを売ることで了解をもらった。最近は、とんとたこ焼きから遠ざかっており、7月に開かれる日本祭りの予行演習にもなるし、引き受けたのだが笹井の予定はどうか」という内容であった。
 むろん、無聊をかこっている笹井は「時間はあるから参加できる」と返事をしたのだが、この仕事は赤字覚悟のボランティア的な働きになりそうだった。
 というのも、老ク連とは「老人クラブ連合会」の略称で、4月30日のビンゴ大会とは、午前10時から始まり、午後3時頃までに十回ぐらいのビンゴを行い、ビンゴ券と弁当をセットにして売り出し、すでに60名ほどはセット券を買ったが、当日参加の会員がいるため、多分100名ぐらいの会員が集まる見込みで、すでに弁当が込みになっているのだから、あまり売れ行きが期待できないのだ。
 さらに老人クラブであり、年金生活者が多く、集まったとしても、100人がせいぜいで、弁当のほかに、いわば「オヤツ代わり」として買ってもらうため、たこ焼き4個で2レアルで販売し、売れたとしても百食で200レアルの売り上げにしかならないかもしれなかった。
 多少、不安はあったが、老ク連は組織としてしっかりしている。何しろ衰退著しい日系社会の中で、中心機関として君臨してきた「文協」がつぶれたとしても(もう崩壊現象は顕著だが)、最後まで生き残るのはこの「老人クラブ連合会」といわれているのだ。
 ともかく事務局がしっかりしている。事務局長の上原さんは女性で、テキパキと仕事を処理し、事務所入り口の廊下には黒板に月間スケジュールが記入されているが、びっしりと行事で埋まっている。さらに事務局員の金籐(きんとう)さんも、積極的な人柄で、またJICAから派遣されているシニアボランティアの安達さんも老人問題の専門家であり、食生活から老後の楽しみ方まで指導しており、まことに充実している。一世ばかりだからタコヤキを懐かしく思う人も多いだろうし、知らない人も、日本の味を楽しんでもらおう、と決行することになった。
 でも、やはり事前に打ち合わせはしなければならないし準備も不可欠である。否、という理由をもうけて一杯飲まなければならない。
 そこで前日の4月29日、午後に1号宅で会うことになった。1号宅はリベルダーデ区のビラ(村)に引っ越している。ここはこじんまりとした小住宅が並んだ、いかにも西洋的な感じがする瀟洒な一画。笹井が車で行き、1号と二人でアクリマソン区のアジト「梁山泊」まで準備の荷物を取りに行く。
 荷物といっても、たこ焼きの生地を溶くポリバケツと油や小麦粉といった程度。それを積み込み、再び1号宅へ戻る。ここで、タコやねぎ、ショウガを切ったりする予定だったが、数が少ないために、すでに1号が準備していた。
 1号は、妻が訪日中でにわか独身の身。感心に夜遊びもせずに準備していたのであった。そこに、ジャカレイ市から3号の櫻田も到着したのが、午後3時であり、早速、打ち合わせを理由にして、前祝いのビールで乾杯となった。
 1号は、本業の邦字新聞者の仕事があり、当日の30日はたこ焼きを焼くことが難しいという。というのも、この日は文協の会長選挙の決選投票日で、先の第1回目投票で1位となった谷候補が裁判に訴えて自信の当選を認めさせようとしたのだが、裁判所から提訴が不受理となり、決選投票出馬を断念するミソをつけてしまった。ところが、第1回目投票で2位となった現文協会長の上原候補は、ともかく決選投票を定款に基づいて実施するという、チト混乱した状況で、これは何としても取材しなければならなかったからだ。
 そこで実質的には、3号と笹井が担当することになった。まあ、なんとかなるでしょう、とビールのピッチは上がるばかり。もっと入念な打ち合わせが必要と痛感した3人は、午後6時から安いことで有名な金太郎で飲みなおし、いや、しっかりと打ち合わせを再開することにした。
 それは、車で荷物運びをした笹井だが、夕方午後6時過ぎには、子供が学校の退校時間になり迎えに車を使わなければならず、自宅に戻らなければならないからだ。それが、これから始まる悲劇につながるとは、この時は誰も知る由が無い。
 笹井が、1号宅を車で出たのは午後4時半ごろ。多少混んでいたとしても、自宅のサンタナまでは40分もあれば充分と考えていた。ガルボン・ブエノ街からコンセリェイロ・フルタード街を通りドン・ペドロ公園の陸橋を渡り、市営メルカード周辺の穀物問屋街を抜けて、エスタード大通りに出ようとした時のことであった。
 「ションベンしたい」
 何と、ナント、なんと。笹井の膀胱から大脳へ小便排泄命令が届いたのであった。それはそうであろう。1号宅では、実に有用な打ち合わせを行い、ビールを一人2本以上は飲んでいたのだ。帰り際に、トイレを借りておけばよかったのだが、後の祭り。
 特に、現場は車を運転中だ。それも午後5時前後の渋滞が始まっており、車は遅々として進まず、周りはカレガドール(荷物運搬人)がひっきりなしに通っている。道路脇に車を止めて、立小便できるような場所ではない。
 さあ困った。
 歩きであれば、駅やバールのトイレに駆け込むことができるのだが、町の混雑した場所を車で運転していたのでは如何ともし難い。これが田舎道であれば、横に止めれば何とでもなる。
 なあに、もう15分もすれば自宅に着くからガマンしよう。
 笹井は脂汗を流しながら、必死にガマンを続けた。
 イカン、小便のことを考えるとますますしたくなる。考えてはいけない。
 そうだ、歌を歌おう。
 こんな時、笹井が口ずさむのは、かつてのスーパーヒーローの主題歌だ。
 ♪ゆーうきだ、ちかーらだ、誰にも負けないこの意気だ。ヤッ、しいろいマフラーは正義のしるし、その名はジェット、少年ジェット
 そう、僕らの英雄少年ジェットの歌であった。
 あの「ウー・ヤー・ター」だ。今、50代以上のオヤジなら誰もが知っている。探偵事務所の女子職員は吉永小百合だった。最後のJET(ジェー・イー・ティー)を、「あれはABCだ」「いやジョー・エン・テだ」なんて、アルファベットを知らなかった小学生の頃に友達とケンカしたはずだ。
 ところが選曲がまずかった。「しょうねん」のとこまでくると、「しょうべん」に結びついてしまう。考えないようにすればするほど考えてしまうのだ。
 では次は月光仮面だ。
 ♪どーこの誰かは知らないけれど、誰もがみいんな知っている。月光仮面のおじさんは、正義の味方よ良い人よ、パンパパパラパ よし、調子いいぞ。それにしてもションベンしたい。
 だめだ、考えてはいけない。次は海底人8823(ハヤブサ)だ。
 ♪だーいじ起こればふるい立ち(ふるい起たせてションベンしたい)、波を蹴立てて海をゆく。光か音か力か熱か、オー(ションベン)、8823謎の人、8823海底人、正義の勇者だ……
 もうダメだ。チビる。ガマンできない。
 その時、その時であった。目の前に、発泡スチロールの箱に冷えた飲み物を入れて売っている道端のお兄ちゃんの姿が目に入った。
 これだ、もうこれしかない。
 笹井は慌てて「アーグア・ミネラール」と叫んで、500㍉㍑入りのミネラルウォーターのペット・ボトルを買い求めた。出費1レアルであった。
 この水を捨てて、ボトルの中に小便をしてしまうことを思いついたのであった。
 ところが買ったはいいが、車が渋滞で動かない。水を買ったお兄ちゃんの目の前でいきなり捨てるワケにはいかない。1分もすれば2㍍ぐらいは流れる。5㍍ほど進んだところで、やっと水を捨て、運転しながら我がイチモツの先端にペット・ボトルの注ぎ口を添えた。
 ヤバイ。亀頭が入らない。
 笹井のそれがデカイからではない。いたって平均的な持ち物である。ボトルの口は以外なほど小さかった。
 でも、尿道口はかろうじてカバーしている。
 エイッ、ママよ。こうなればしかたない。ジョジョー!
 すさまじい勢いで小便は放出された、多少回りに飛び散っているが、気にしない。放出の快感にひたっている暇もなく、アッという間にボトルは満タンになってしまう。止めるのも辛かったが、止めて最初の排泄終了。ドアを少し開けて、周りから何をしているかわからないようにして、下から捨てた。
 これを3度繰り返して、やっと人心地ついた笹井であった。
 家に着くと、パンツとズボンの下腹部は多少濡れていた。下半身だけシャワーを浴びて着替えて、メトロに乗り、予定通り午後6時にはリベルダーデの金太郎に着くことができた。
 飲むほどに酔うほどに、小便事故の話で盛り上がった。笹井は何度もウンコでは悲喜劇を体験していた。いや、笹井と同じく何時も二日酔いで下痢ぎみの1号松本、軟便系の紺谷も、悲劇があったが、さらに小便でも悲劇が惹起されることが確認されたのであった。
 むろん、打ち合わせもチャント行い、午前10時からビンゴ大会は始まるが、気の早い年寄りばかりだから午前9時には集まり始めるため、午前8時には準備を開始するよう、7時半に1号宅集合ということも決まった。

 ◎本番

 4月30日午前7時半。時間通り1号松本宅に笹井が車で到着し、荷物の搬出開始。老ク連までは、車で5分の距離のため、すぐに老ク連事務所へ着き。準備を進める。あいにくの雨模様の天気で、晴れていれば門扉と玄関の間の外で焼く予定だったのだが、玄関ホールで焼くことになった。
不調のたこ焼きマシン.jpg
紅蓮の炎を吹き上げるたこ焼きマシン
 1号はたこ焼き生地の作成。3号と笹井は、3台の家庭用小型たこ焼き器をセットし、ガスボンベにつなぎ先ずは燃焼テスト。ところが、どうも調子が悪い。
 このタコヤキ器は、1号が、すべて日本から運んできたもの。これで第1回目の郷土食・郷土祭りに出展し、大好評を博したのだから、すでに5年以上はたっていることになる。この3台のうち2台の炎が不完全燃焼し、炎が赤くなり黒いススが出てしまうのだ。そのまま使うと鉄板に黒いススがこべり付いてしまう。空気弁を調整するのだが全く機能しない。
 どうも、空気弁がガタガタになっており、何よりもこれまで一度も掃除したことがないので、ガス管が目詰まりしている可能性が高い。これは使えない。
 やむなく、何とか無事な一台を使うことになった。1号は準備を終えると文協へ取材へ。焼き方は笹井、ソース付け、アオノリかけ、会計を3号が担当することになった。
 まあ、時間はたっぷりあるし、4×6個の穴しかない一台ではあるが、何とかなるだろう、とたこ焼き開始。やはり久しぶりだけに、最初の2回目ぐらいまでは鉄板も馴染んでおらず、調子が悪い。最初の試し焼きは事務局の皆さんに試食してもらった。
 3号櫻田は、日本移民百年祭のホームページ充実に全力を投入しており、ここ老ク連もホームページ製作に協力したことがある周知の仲。タコヤキを配ってしっかりとゴマをするのであった。
 でも、まだ9時前のため、焼き続けるとたまるばかり。火を落とすことにした。ところが、鉄板が冷えると再度点火した時に、どうも按配が悪いのだ。
たこ焼きアイテム.jpg
高性能たこ焼きアイテム群
 ところで、今回の4個2レアルで売り出したたこ焼きの容器は、ちょうどマクドナルドのビッグマックを包むフタつきの形そっくりで、一回り小型のものも用意していた。これだと、持ち帰りの時に便利であり、保温にもなる。
 そこで、これを利用して、売れないからと火を落とすことなく、作ったたこ焼きを次々と入れて保温することにした。これがけっこう調子良い。
 そろそろ人が集まるようになり、事務局の皆さんと3号もお盆にたこ焼きを積んで、会場の中を歩き販売を行った。特に事務局の皆さんは、半ば強制的に「はい、たこ焼き」と押し付けてくれるのである。2レアルという値段設定も良かったのだろう。誰もが気軽に買ってくれた。むろん3号では、こうはいかない。素晴らしい事務局だ。事務局はこうでなければいけない。いっそ文協に紹介したいくらいだ。
 ところで、たこ焼きというもの。本当にブラジルでは知名度が低い。老ク連の会員は90%以上が一世だが、たこ焼きを知っているのは半数ぐらいではなかろうか。というのも、今でこそ全国的に駅前に行けばたこ焼きの屋台を見られるが、これは最近のことだ。
 笹井は1980年(昭和55年)6月まで東京にいたが、中央線沿線で、駅前にたこ焼きの屋台が出ていた記憶はあまりない。ただ関西には学生時代から何回となく行っていたため、本場のたこ焼きを知っていたが、まだ全国的でなかったと断言できる。
 関西出身の人に聞いてみても、たこ焼きは戦後のもので、京都あたりだと、河原町あたりにたこ焼きの屋台が並んだのは戦後で、金持ちがほろ酔い加減でたこ焼きの折を買って土産にしていたものという。そういう意味では高級品だったらしい。
 だから戦前の移民が知らないのは無理ないことで、戦後も落ち着き、経済復興してから広まり、最近になって手軽に誰もが食べれるようになったのだろう。戦後の混乱期にきた移民も知らないのである。そういえば、老ク連でも、最近の日本で食べたという人が大部分だった。
 そういう事情もあるのだろうか、たこ焼きを焼いていると、そばにへばり付き、ジーッと食い入るようにたこ焼きがクルクルとひっくり返る姿を見つめる人が必ずいる。この日も、オバサンが何を考えているのか、横に立って黙ったまま、表情を変えずに見つめるのである。珍しそうな表情か、驚きの眼差しで見つめるというのなら理解できるのだが、無表情でただただ見つめるのである。チト不気味なので「たこ焼きつくるの面白いでしょう」と声をかけると、相変わらず無表情にうなずくだけ。この手の不気味オバサン、不気味オジサンは、気にかけないことにする。
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老人パワー炸裂の大ビンゴ大会
 さて、調子よくさばけていたが、さすがにビンゴが始まると客足はパタッと止まってしまう。そこで、ビッグマック容器が重宝するのだが、これには意外にも落とし穴があった。それは熱いままたこ焼きを入れてフタをすると、湯気が内部にたまり、水滴となってたこ焼きをグシャっとさせてしまうのだ。
 そこで、水滴を吸い取るためにナプキンを底にひいてみた。でも、これもダメ。紙が水滴をよく吸い込むために、紙がグシャグシャになり、たこ焼きにくっついてしまう。これでは食欲半減してしまう。
 だから、たこ焼きを入れたら、余熱を取るぐらいまでフタを開放しておき、それから閉めることにした。こうすると、かなり良いみたいだ。やはり経験しないと分からないことは多い。
お焼き風景.jpg
和やかなお焼き風景
 昼食には弁当が我々にも支給され、ゆっくりと焼きながら食べ、まあ気楽な仕事となった。それでも、容器の数の減り具合からすると、まあまあ売れている感じがする。
 そんな時にフラリと仲間の楮佐古氏が現れる。今回、写真集を出版し、それを持参してきてくれた。題名は『MINHA・VIDA』といい、ブラジルにきてから10年の歩みの中で撮り続けた作品と散文詩の本で販売している。(1冊30レアル)笹井は金もないのに、よう写真集なんか出してと思っていたが、自分の歩みを気取りも衒いもなく淡々と記した、好感の持てる作品ばかりで、散文詩は中原中也を彷彿とさせる記述(ほめ過ぎか)で、多くの人に買ってもらいたい。とゴマをすったのは、理由がある。
 これまで、日本祭りの時などに、ネギを数㌢もつながったままにした適当な切り方をする人物がいた。こういう適当な人間は楮佐古以外に考えられない、と笹井は思っていた。ところが今回で真犯人がみつかった。
 それは1号である。今回の用意は1号がすべてしたのだが、ネギの切り方をみると、じつに適当で、つながったものが大分あった。笹井は楮佐古に「今の今までキミのことを疑っていて済まなかった」と謝罪したのであった。
 どうも楮佐古は疑いを持たれるタイプのようだ。何時のことだったろうか。アジトで子供も呼んで飲み会を開いた時だったが、3号の子供、修平君のオモチャを誰かが壊したらしいのだが、犯人として疑われていたのは楮佐古の子供であった。どうも、この親子は無実の罪をきせられそうだ。この笹井の謝罪によって、二度と疑われることなどなくなるだろう。
 そうこうしているうちに、ビンゴが終わりドット退場してくるときの混乱となった。取材を終えた1号も戻り、手分けして「お土産にたこ焼きどうぞ」といって、2個、3個と販売していった。この時に不思議な光景が見られた。あるオバサンが、3号と笹井の食べ残した弁当をワキに置いていたのだが、「この弁当は幾らか」としつこく何度も聞いていたのだ。その時は「いや、これは売り物でなく食べ残したものですから」と説明したのだが、未練たっぷりに弁当を見つめていた。そのオバサンが、帰りの混乱に乗じて残っていた弁当をムシャムシャと食べ始めたのである。
 ガキがそうしたら、「コラ、だめだ」と言うこともできたが、相手はオバサンだ。「ダメ」なんて言えない。よっぱど弁当が食べたかったのだろう。驚いたがただなすに任せるしかなかった。
 そればかりではない。何と、味付けのソースを容器ごと持ち帰ろうとするオバサンがいたのである。この時は「それダメだよ」と言ったが、どうゆうことなのだろう。
 察するに、コロニアというよりブラジルでは集会があると必ず何かを持ち帰る習慣がある。結婚式では、残った食事を持ち帰ることは普通に行われ、日本語学校の卒業式なんか飾られた花を、持ち帰ることは珍しいことではない。それも、取り合うようにして奪うのである。
 それに、コロニアのお年寄りは逞しい。万古斧の入らなかった原始林を切り開いてきた開拓者なのである。弁当を残したままにしておくことが許せなかったのであろうし、何か持ち帰るものが欲しかったのだろう。いやはや、大変なものだ。
 結局、午後3時過ぎにすべてが終わった。
 生地が多少残ったが、タコもネギ、ショウガも半分以上がさばけ、まあ目標の百食は達成したようだった。
 いざ撤収。
 1号宅に戻り、売り上げを勘定してみると400レアル余り。つまり200食以上売れたのだ。この原因は一つに事務局の皆さんのおかげだ。特に、帰り際には、役員に対し「はい6個持っていって」と次々に渡し代金を徴収してくれたのである。やはり、事務局がしっかりした組織は違うと認識を新たにした。
 それに2レアルという価格も、割安感があり幸いしたのかもしれない。
 ただし、利益が出るまでにはいかなかった。タコと小麦等の仕入れに200レアル余りかかってしまった。それとガソリン代、最も大切な打ち合わせ会議費(要するに飲み代)を引くと赤字であった。
 ということは、飲まなければ黒字なのだ。でも、楽しみも加えながらというのがたこ焼きの趣旨。いろいろあって楽しめたのだから、これで良かったのだ。
 そして打ち上げは、またしても金太郎となったのであった。
 そういえば、金曜夜の打ち合わせ会議の時、ここ金太郎は大混雑していた。その中には、かなり年配者が多かったのだが、神を金髪に染め、分厚くお化粧したお化け、いや、昔のモッサ三人組がいた。本人達はキャンディーズのようなつもりなのだろうか、けっこうこの店では顔らしく、盛んに愛嬌を振りまき馴染み客と挨拶を交わしていた。その姿を背後から、ジーと三人のお尻を穴の開くほど見つめるオジンの姿もあった。もう杖をついて足元がおぼつかない年齢なのだが、その見つめる目の助平なこと。こういう変態的とも思える行為に敏感な3号などは、そのオジンに感心することしきりなのである。やはり、コロニアの老人は逞しい。いやはやコロニアで最後まで残る日系団体は老ク連であることは間違いない。(笹井記)


[今日の教訓]
ビールを飲んだ時は帰りがけにトイレに行く。
集会終了後の混雑時には持ち帰りに注意する。


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