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岡村淳のオフレコ日記
     孤高の作家・松井太郎の世界  (最終更新日 : 2024/02/05)
ある移民の生涯

ある移民の生涯 (2009/01/03)  久しぶりにサン・パウロに出てきた従弟と四方山話の末、奥地にいた時分将棋友達で親しくしていた床屋のことを尋ねてみた。一風変わった好人物で独りぐらしをしていた。私がなつかしむと従弟は、
 「おやじさん、昨年の夏ぽっくり死んだよ。六十二、三だったかな」
 と事もなげにいい煙草に火をつけた。
 「元気のいい人だったがな」
 「卒中だそうだ。近所がよって葬式を出したし、墓石も建てたようだ。おやじさん少しはためていたんだな」
 私は何となく物思いにしずんでいると、従弟は大きなあくびを一つして、話の切れ目をさいわいと、旅づかれもあってか、あてがわれた部屋にひっこんでしまった。

 もう四、五年も前になるだろうか、所用でX市に出かけたことがあった。都合で一汽車おくれて戻った。乗り合いバスは出たあとで、悪いことに大雨になってきた。やっと探しあてたタクシーの運転手は、肩をすぼめてご免こうむりたいというしまつで、家まで二十キロも歩くわけにもいかず、田舎町の一軒しかない南京虫のいるペンソン(商人宿)に泊まることにした。その夜はねむれそうにもないので、食後卓からはなれず所在なさに煙草をふかしていると、ひょっくり床屋が顔をだした。彼はここの一部屋をかりていたのだった。

 「どうも聞いたことのある声と思ったら貴方でしたか。いよいよムダンサ(転居)も近づきましたな、永らくご贔屓になりましたのに残念でございます。お別れに一献さし上げたいと考えておりました。今宵ちょうどよい機会といっては失礼になりますが、私におごらせて下さい」
 といって、女中に命じてビール瓶をならべさせた。酒に話がはずんでノロエステ(北西の地)A植民地時代の昔話となった。すると床屋は、
 「若い時分S耕地の分譲地にいたことがあります。おん地とはつい目と鼻の先でしたな、あそこでは一生忘れることの出来ない思い出があります。貴方がサン・パウロへ行かれるとすると、今夜を外にもうゆっくりと話しあうことも多分ありますまい、今まで誰にも話したことはありませんが、私の身の上を聞いて下さい」
 といって次のような話をした。


 私は四国生まれの者で、十二才のとき故国を食いつめた両親に連れられてこの国にまいりました。もう四十年ちかくなりますか、モジアナ(地名)を振りだしに人気の好い土地を求めて、サン・パウロ州各地のあちこちを歩きまわりましたが、これという好い芽もでません内に、両親とも死にまして、兄夫婦とS村で綿作りをしていたことがあります。

 私はもう二十才をこしていましたが、あれは何年頃でしたか、コーヒーの不況にひきかえ思わぬ綿の高値に夢にも見ないような大金が手にはいった年があります。その年の収穫期の終わったころ、兄の知人で大石という者が家族をつれて、歩合作でもよいから土地を世話してくれと、三角ミナス(ミナス州の一地方)からころがりこんできました。
 昔から法螺ふきの千三屋でとおっていましたが、あちこち放浪しているうちに、大酒はのむ借金をふみたおして夜逃げはする、人柄がすっかり変わったと兄はいっていましたが、モジアナ時代の古い友人をすげなく断るわけにもいかず、心やすい地主の処へ世話をしました。
 大石の家族は十八の娘を頭に小さい者たちが大勢いました。その娘は十年前モジアナの耕地にいた時分は隣どうしでしたので、移ってきた日ひと目みて珠江さんだとすぐわかりました。首をかしげてにっこり微笑する仕草などに、幼い頃の面影が残っていました。

 あの頃はよく連れだって製粉場へフバ(トウモロコシの粉)を取りにいったものです。いつか支配人宅の庭へ垣根のやぶれからもぐりこみ、ジャボチカバ(桃金嬢科)をとった時のことなど忘れません。
 古色蒼然とした太い幹から枝から、じかにぶつぶつ吹きだした紫の玉をもぎとって、唇にあてて指でおすと、核をつつんだ白い果肉がつるりと口に滑りこみ、すこし酸味がかった甘さが口一杯にひろがります。口のあたりを紫に染めて夢中に食ってると、俄かにおきる番犬の吠える声にあわてて逃げだしたことなどありました。

 ひっこし荷物の手伝いにいって、美しい娘になった珠江さんとは、言葉もかわさず私も照れくさい思いで、別にどうということもありませなんだ。

 その年の暮れも近くなったある日のことでした。頼まれた噴霧器をとどけに大石の家に行き、ついでに畑の方に回ってみました。雨上がり後の涼しい微風がふいて、棉の葉は白い裏をかえしながら、波のうねるように広い畑を渡っていきます。娘は脇芽つみをしていましたが、私を見て畦道まで出てきました。ふと目をやると襟首のところに大きな毛虫がはっています。タツラナという百姓の恐れる毒虫です。
 「毛虫がついているから、取ってあげよう」
 という私に、若い娘などはそうじて毛虫などにはおじけふるえますから、びっくりするほど私によりそってきて、身を固くしてしまいました。わけもなく虫を払いおとして刺されなかった安心よりも、若い異性をこんなに身ちかく感じたことのない私は、胸の苦しくなるほど心臓の高鳴るのをおぼえました。彼女も同じだったのでしょうか、顔をもえるように赤くして逃げるようにいってしまいました。それから時々は会うようになり、親しさもまして冗談などいえる仲になりました。


 雨もようの生暖かいサン・ジョン(聖ヨハネ)の宵宮でした。雲ひとつない晴れ上がった天気なのに遠く西の空でしきりに稲妻が走っています。今夜は下のセバスチョンの家で踊りがあるとかで、人々の出入りがあってなんとなくざわついています。犬どもの鳴き声に、人の叱る声、笑う声など入りまじってにぎやかです。時々びっくりするほどの花火のはじける音がします。
 私は大石の家によって珠江さん、すぐ弟の信吾らを誘って踊り見物に出かけました。脱穀場に作ったテント張りの会場は広いばかりで、所どころに吊り下げたランプは黒い油煙でホヤをけむらせ、少しも明るくありません。私たちは入口に近い隅に席をとりました。
 これほどの人たちが何処からくるのかとおもうほど、賑やかにぞろぞろと入ってきます。安香水匂わせめかしたてた女たちが、気取った格好ではいってきては服をすこし腰のあたりでつまみ上げ、思いおもいの席につきます。男どもは今夜を待っていたとばかり、一張羅を着こみ派手なネクタイをきゅうくつそうに猪首にしめ、くわえ煙草ではいってきては、馴染みを探し出してわりこんでゆきます。

 「シッコが来た」
 誰かの大声に、出入り口に目をやると、シッコの楽団が手風琴、ビオロン、笛、太鼓などにぎやかに楽器をたずさえて乗り込んできました。彼らは会場の真ん中に陣どり、めいめいに音じめを調整していましたが、まず手風琴がなりだしました。鄙びた曲の単調な繰りかえしですが、聞いているうちにしぜんと腹のそこから、音楽のリズムにのって行くような力があります。扇情的な音曲の高調するにつれて、熱い血のたぎりやすいこの国の男女は、もう夢中になって踊り狂っています。
 私は踊りの輪をみていますと型はごく簡単に思われたので、
 「珠江さん、組んで踊らないか」
 と誘いましたが、なんだか恥ずかしそうにしているので、無理に手をとって出ようとすると、曲は急にやんで人びとはそれぞれの席に散ってゆきます。私は仕方なく腰を下ろしましたが、彼女の手は握ったままでした。親しそうに踊った一組は恋仲なのか、手に手をとって共に座っています。なかには女の腰をかかえこむようにし、何かささやいては笑いあっている連中もあります。
 私は時々流し目で珠江さんの顔をぬすみ見しました。彼女はうつむいたまま赤くなっていましたが、べつに嫌がって手を引っこめようとはしません。私は嬉しくなって、たわいのないことですが、握った手に力をこめたものです。

 ややしばらく休みがあって、また演奏がはじまりました。この度は穏やかなリズムで、足を滑らすようにして踊りながらくるりくるりと回ります。それは前の荒っぽいのに比べると、ややこみいっていて踊り方を理解しないと踊れません。けれども私は珠江さんと共に座って、女のやわらかな手にふれる機会に恵まれたのですから、充分に満足でした。
 入れ替わり立ちかわり夢中に踊り狂う彼らの気分は、ようやく高調してきたようです。どうせ踊り明かすつもりの彼らには、まだ宵の口ですが、私たちはそう遅くまでいるわけにもいかないので、焚き火をかこんで焼き芋でさわいでいる子供たちを呼んで、帰ることにしました。大石の子供らは歓声をあげて走って行きます。信吾も行ってしまったのか、辺りには見えません。いつの間にか雲のでた夜空は星も消えて、時どき雲の中で稲妻が光ります。二人ならんで夜道を歩いていると、私はしだいに胸くるしくなってきました。

 その時、自分ながら何をいったのか讒言のようなことを口走って、珠江さんに抱きついたのです。彼女は驚き両手で私の体をつっぱりましたが、もちろん男の力にはかないまケん。
 私は女の首をかきこみ、つよく幾たびとなく唇をすいました。濃い闇は私たちをつつみ、鳴く地虫のかすかな声がよけいに静寂をふかめます。この一刻、広い天地に生きている者は、私たちだけだと感じた時の、あの高い情熱をいきただけでも、お笑いください。この世に生を享けた甲斐はあったとしています。

 その年の収穫期の終わった頃、珠江さんに縁談がもち上がりました。話をもってきたのは大石のパトロンとのことで、彼女の父はたいへん乗り気らしいと、夕食後、何も知らない兄はありふれた世間の噂として話題にしたのですが、私は気が気ではありません。
 翌日用事をつくって大石の家をたずね、隙をみて珠江さんにただしましたところ、
 「前に、母さんからちょっとそんな話はあったけど、まだ早いといって、断っておいたの」
 「それでも、あなたのお父さんはたいへん乗り気ときいた、相手は隣村の望月さんだろう。あそこは金持ちだしなぁ。」
 「わたしは貴方のほかは誰にも嫁がない、父さんの話は断るから」
 と私を有頂天にさすような殺し文句をいうものですから、一応安心して帰りましたが、また心配になってきました。
 頼りになるのは彼女の決心だけですが、一すじ縄ではいかない親父さんの事を考えると、はなはだ心もとないしだいなので、珠江さんにもあんなに言ったのだからと浅い考えで、嫂に大石の娘をもらってくれるように兄に言ってくれ、と頼むと、
 「新さんもなかなか隅におけんのね、でもねー、珠江さんには望月さんから話がかかっているのよ」
 と笑って相手にしてくれません。私はむきになって、どうしても兄に頼んでくれと言いはりました。
 その日の夕食後、兄はむつかしい顔で、
 「新次、珠江さんは諦めるほうがいいぞ、望月さんが先口だからな」
 「でも、望月さんは断られるよ」
 私は一縷の望みをかけて答えました。
 「お前、どこから知ったのか、親父さんもう結納金もらっているぞ。お前の気持ち分からんこともないが、この度は諦めろ、珠江さんだけが娘じゃない、お前がその気になれば、俺がええ娘さがしてやる」
 条理のかなった兄の言葉にいつもなら納得する私も、これだけは承知するわけにはいきませんでした。兄と私とはだいぶん年がちがいます。考え深くて思慮に富んだ兄に親しみ敬愛もしていましたが、今の兄の言葉はどうしても私の気持ちにおさまりません。
 ―珠江さんは駄目だから、他の娘にせい―と言う兄には、珠江さんは他の娘たちと同じなのです。けれども私には珠江さんでなくてはならない。堰かれた恋ほど燃え上がるといわれますが、もし彼女が他の男に嫁ぐような事になれば、まこと私は生きているつもりはありませんでした。

 私は信吾に青年会の用があるからといって、姉を呼んでもらいました。彼女は不安そうな暗い表情で、ちらっと私の顔をみてうつむいたままです。
 「珠江さん、君のお父さんはもう結納をうけたというではないか」
 と責めるようなことを言いましたが、彼女は黙っていて何の返事もしません。私は震える両手を珠江さんの肩におき、
 「逃げよう、明日朝はやく呼びにくるから」
 いま思い切った事をしなければ、世の習慣におされてついには、女を見も知らぬ男にとられると考えたのです。
 彼女には複雑な思いがわいたのでしょう。目にいっぱいの涙をためて、私をじっと見つめてからうなづくと、身をひるがえして走りさって行きました。

 そういう訳で二人は駆け落ちをしました。
 追っ手をおそれて間道づたいに、三十粁もあるC町に着いたときは、夕闇が低い家並の軒にからみ、蝙蝠がひらひらと飛び交わしています。
 線路わきのわびしいイタリア人のペンソンに一夜の宿をもとめました。夕食後あてがわれた小部屋にはいると、何となく不安の念が雲のようにわいてきて、廊下を歩く人の足音さえ追っ手ではないかと、じっと耐えているのが苦痛でした。

 この度の行動は、ふかく考えて前から計画していたものではないので、私の懐中には五十ミルレースばかりしかありません。これではいくら物価の安かった時分でも、二日と泊まることはできないので明朝一番の汽車でB市の近くにいる、遠戚の者をたずねることにしました。それでいくらか不安もきえましたが、はなれて寝台に腰かけている珠江さんはうなだれて物思いに沈んでいます。長女ではあり、家おもいの彼女にしては無理もないことです。
 私は気の毒になって、
 「何も心配することはないよ」
 と寄りそい彼女の手をとりなぐさめました。
 「新さん、いつまでも可愛がって」
 彼女は真実情のこもった表情で、私の手をとり自分の胸のふくらみにひたと押しあてます。日ごろ慎みふかい彼女の大胆な愛情のしぐさに、私の情欲は火をよんで燃えあがり、彼女を引きよせて抱き、―珠江は俺の女だ。どんなことになっても、誰にも渡すものか―と自分の愛情を確かめるように、骨もくだけよとばかり珠江を抱きしめました。
 年甲斐もなくつまらぬことをお聞かせしましたが、先をお話しいたしましょう。


 翌朝一番の汽車でB市にゆくつもりで、改札口から歩廊にでますと、出会い頭に兄に見つかりました。しまったと身もすくむ思いでしたが、いまさら逃げだすわけにもいかず、どうなる事かと不安のまま立っていますと、兄はつかつかとやってきて、
 「何処まで行くつもりだ」
 と気もせいたふうに尋ねるので、
 「岡田のところで、とうぶん世話になる」
 私は遠戚の者の名を知らしめました。
 「はやく出よう、汽車も乗り合いもあぶない。タクシーで行け」
 この時、はじめて兄は私たちの味方だと分かったのです。私のかげで小さくなっている珠江に、
 「珠江さん、心配することはない、お父さんと話しあってみよう」
 と優しくいたわる兄の態度に、ようやく私も安心して、兄に導かれて駅を出ました。
 走りさる車のなかで、―ああ、やっぱり血をわけた兄弟だ。世の中でたった一人の味方だ―、と思えば私もつい瞼が熱くなりました。

 その後、一ヶ月もたった頃、兄は私たちを訪ねてきました。私たちの駆け落ち以後の事情を、笑って話してくれましたが、やはり世評などで心痛しているのは隠されないのは顔にでています。
 娘のいなくなった日、大石は前からうすうすは感じていたらしく、家に怒鳴りこむなりフォイセ(長柄の鎌)を庭につきたて、ピンガ(火酒)でいきりたち、
 「お前、新次とぐるになって、うちの娘を騙して逃がしたのだろう」
 などと喚くのですが、兄はなんだか訳は分からなかったそうです。まさかと思ったが、嫂に言って、掛け出しになっている私の部屋の戸を開けてみて、もぬけのからなのに驚き二人に知らしたので大石も兄が事情をしっていて逃がしたのではないと、しぶしぶ承知したものの、
 「あいつらの隠れ屋は知っているはずだ」
 とその後もしつこく探りにきたそうです。

 「新次の奴、俺の顔に泥をかけやがって、あいつ殺しても足らん。見ておれ俺の目の黒いうちは絶対ゆるさんからな」
 などと兄にもいきまき、村じゅうに吹聴して歩いたと言います。なかには面白がって大石をからかう者もいたそうですが、何といっても兄に迷惑をかけたのは悔いとして残りました。
 こみいった経緯の後、大石の家族はパラナ州へ移って行きました。彼らの移転の前の日、珠江のすぐ下の信吾が兄を訪ねてきたそうです。
 「おじさん、姉さんの居所しらないか」
 兄は訊かれたので、
 「お父さんから尋ねてこいと言われたか」
 「いや、かくれてきた、母さんがこれ姉さんのだから、小林さんにとどけておいでと言われてきた」
 少年は兄に新しい腕時計をさしだしました。珠江が逃げだすとき、忘れていった物です。兄は受けとってから、
「折があったら姉さんに渡そう、居所は分かっているので心配はない、当分は知らんことにしといてくれ」
「お母さんも言っていた、父さんは分からず屋だと。おれ姉さんや新次兄さん好きなんだ」
 という信吾に、兄もついほろりとさせられたそうです。
 大石の家族が出発したのち、私らが兄の許にもどった日、時計を珠江に渡して兄はこの話をしたのです。妻は泣いていました。

 私どもで大石との騒ぎがあって、村の居心地もよくないので、兄はこの際思いきって百姓はやめて、サン・パウロに出てみようといいます。
 私は百姓をつづけるつもりでしたから、その頃売りだしていたX土地会社の分譲地に移ることにしました。これが兄弟の最後の別れになるとは夢にも思いません。
 都会にでた兄は既製服の下請けの仕事にありついたと、便りがあったので安心していましたが、半年もたたぬうちに交通事故で死んだとの電報がきていました。その電報も一ヶ月も郵便局にほってあったので、兄の葬式にも間に合いませんでした。
 私はその頃、旅行できない事情があって、速達の手紙を送っておいたのですが返事はありません。しばらくたって嫂の父から書状がきて、嫂は実家に帰っていることが分かりました。二人の間に子供がなかったので、たぶん再婚したと思われますが、達者でおればもう六十はこえているはずです。

  
 あー、そうでしたか。本街道へ出る分かれ道の近くに住んでおられましたか、あそこにはたしか居酒屋があって、太い木綿が一本茂っていました。そういえばヘチマ棚のある木皮葺きの農家がありました。
 あれからでも分譲地までは十五粁はありました。そこには無人の案内小屋があるばかりで、私のロッテ(区画)まではまだ五粁はありましたでしょうか、それでもところどころ伐採した処もあって、そこには早くも邦人が住んでいました。案内者が、―お前の土地はここだ―と言って、地面に打ち込んである棒杭を示します。
 昼でもなお暗く、涼気をよぶ鬱蒼としげった原始林のど真中に放りだされたのですから、気負いたっていた私も唖然となりました。会社の馬方は荷物をおろすなり、こんな処に長居は無用とばかり、車をまわして密林の間道にきえていきます。私は妻が怖じけないかと心配でしたが、彼女はだまって荷物など分けているので安心しました。

 その夜は俄かつくりのテントをはり、焚き火をたやさず一夜を明かしました。翌日はさっそく伐採にかかりました。はじめての斧でふた抱えもあるペローバの大木に打ち込みます。と、一撃ごとにすんだ山びこがひびき、しだいに斧が食いこむにつれて、幹の芯まで赤い口をあけていき、梢がかすかにふるえだすと、大きな幹が傾くとみるまに、ごおっと風を呼んで地響きたてて倒れます。まず家を建てる敷地を伐り開いて仮住居をつくり、井戸を掘り三域の伐採がおわった頃は、七月も終わりに近く乾期の末でした。

 よく晴れた無風の日、隣の人たちの応援をえて山に火をいれました。私は伐採地の真ん中まではいっていき火を放ちますと、連日の日照りつづきでよく乾いた枯葉はぱっと燃え上がり黒い煙の柱が空に立ち上がります。
 上がる煙を合図に、助勢の人たちは火道にそって火をつけていくと、たちまち起きる風に勢いをえた火の手は、乾いた下草に燃えうつり、火炎に乗った幾千の木の葉は火粉となって舞い上がります。つのる風にますます勢いをえた火勢は、五米もの高さに立ちのぼり火は風をよび、風は火をあふりたてて、すさまじい音をたてながらすべてをなめつくしてゆきます。
 ところどころ伐りのこした椰子は立ちのぼる熱気のなかで、総毛立ちになってゆれているうちに、一瞬、青葉は火の玉となり、渦巻く黒煙のかなた、一本の棒になって見えかくれするうちに、四方から迫った火勢が一点に合して、一きわ高く燃え上がった後は火も急に衰え、風も落ちて山焼きは終わりました。

 その夜、荒けずりの食卓をかこんで、男たちは祝宴をはりました。卓上にはピンガの瓶がならび、大皿には若鶏の刺身がもられ、酢味噌あえの椰子の芽もでています。半日の火にほてった顔に酒がまわって、それぞれ一癖ありそうな人々の面がまえは、赤鬼のように吐く気炎も盛んなもので、親分格の山城さんは私をおだてあげ、
 「小林、おめえは幸先がいいぞ、きょうの山焼きはよく焼けたからな。やっぱり奇麗な『かかあ』持っとる奴は運もええ、ここは米がよく出来るで、一域二百俵は太鼓判だ。そのうちコーヒー樹は育つ。ここでは内地のように小作の子は一生、小作じゃねぇ。一国一城の主だ。しかし怖いもの知らずの殿様になってもいかんがな」
 身ぶりおかしく話せば、わっとあがる笑い声に、山奥の五軒家とは思えぬほどの賑やかさで、これではまるで深い森の中の鬼の酒盛りです。

 目をさますと粗壁の隙間から夜が白んできます。珠江は起きだして台所でコーヒーをこしているのか、香ばしい匂いがただよっています。渋い目をこすりながら外にでると、しっとりと夜霧にぬれた原始林は、水蒸気が樹々の間にたちこめて、まだ目覚めないといった様子です。それでも早起きの小鳥たちのかしましいほど嬉々としたさえずる声、木つつきのコンコンと木をつつく乾いた音、朝の食事をすますと、私は斧をかついで開拓地へでかけます。
 雨までに植えつけの邪魔になる小枝は払っておきたいし、コーヒーの種をまく穴も掘っておきたい。心はせく一方でした。焼け跡の一日の労働がすんで、森の彼方に沈む夕陽を見ながら帰路につく私どもは、顔も手も炭と灰で真っ黒なのを互いに笑いあったものです。

 ドラム缶の野風呂でひと浴び汗をながし、よい湯かげんにつかっていると、とろけるような疲労からの開放があって、夕食後ごろりと板敷きの寝台にころがれば、あとはすぐに白河夜舟です。ある夜のこと、何となく家の外がさわがしいので、目をさますと、豚小屋でなにかあるようです。
 「おい、オンサ(豹)がきとるぞ」
 と言って妻を起こしました。珠江はこわがってしがみついてきます。私は愛蔵のカラビーナ(ライフル銃)の筒口を壁のわれ目から突き出し、見えない的にむかって一発また一発と放ちました。翌朝起きてみると、大事に飼っていた孕み豚は影も形もありません。

 九月に入って雨期の前ぶれの慈雨が、じっくりと大地をうるおしてくれました。朝はやくから細雨にくもる開墾地に、播種機を使って米まきです。流れる灰色の雲のすきまからもうかなり昇っている太陽が白くすけて見えたかと思うと、すぐに厚い雲層のなかに消えます。
 シャツは汗ばみ空腹をおぼえる頃、妻は水樽に弁当をさげてきました。切り倒した丸太にまたがり、ガツガツ食っている私を妻はぼんやりと見ているので、
 「おまえ、食わんのか」
 私がきくと、
 「吐き気がして、たべたくないの。あなた、どうも悪阻らしいわ」
 と妻ははにかんでいます。近ごろ少しやつれたと思っていたから、そうだったのかと合点はいったものの、嬉しいような、ちょっと早かったのは失敗したという、男の自分勝手な気持ちを持てあまして、妻に笑いかけましたが、苦しい今の境遇や生まれてくる子供のことなど考えると、しぜんと顔のすじのこわばるのを、どうしようもありませんでした。

 降りにふった雨期もようやく明ける頃、コーヒーの若木の世話から帰ると、妻は寒気がすると言って夕餉の支度もせずにふせっていました。二、三日前から体調をくずしたのを知って、普通の身ではないので休ませておいたのです。
 妻はがたがたとふるえていて、寒いから有るだけの着物を重ねてほしいと言うので、額に手をやりますと、燃えるような熱ですが、薬といってもアスピリンぐらいなものです。そのうち、発汗して熱はなくなりました。私は強いて風邪だろうと思い、妻にもそのように言ったものです。ところが日ならずして私も寝こんでしまいました。
 四十度ちかくの熱がでて発作がおわると、日ごろ疲れを知らない私でも、ぐったりと体から力がぬけてしまいます。月一回の町への便に、薬を頼みに山城さんにいって知ったことは、どの家族にも一人、二人の病人がでていました。

 妻の発作は軽いのに、いつまでも後をひき、はっきりしません。しだいに目だってきた大きな腹をかかえ、肩で息をしながら家事をしています。私にも発作はくるのですが、仕事には出ていました。その内にマラリヤの奴の出方も分かってきて、熱のでる頃を見計らって家に帰り、布団をかぶっていると案の定、ガタガタと歯がなり身体はふるえだします。
 こんな仕儀で野良仕事は遅れるいっぽうです。早蒔きの稲はもう刈り時だし、コーヒー苗の手入れもしたいし心はせくばかりで、一日も早く籾を収穫して、薬や滋養物を求めたいと思ったものです。

 どうも妻の容体は思わしくなくて、黄疸がでて体じゅうが黄色くなりました。熱があって入浴はやめていたのですが、久しぶりに湯をたて妻をいれ背中を流してやりました。
 太く肥えていた腿も干鱈のように痩せて、異様に目立つ腹をかかえ妻はだまって座り、私のなすままにしています。細い首すじにからむおくれ毛もわびしくたよりない様子です。
 「きついか」
 「これで、さっぱりしたわ」
 「明日、町へ行こう」
 私は妻のことが気にかかっており、何とかせねばならないと思いつつも、貧しい財布の底をみてためらっていたのですが、町の仲買人から前借ができると聞いて出かけることにしました。

 翌日朝はやく妻を連れて隣の山城さんまででかけ、頼んで馬車を出してもらいました。医者に診てもらい、帰路についたのは昼すぎでした。
 途中で夕立にあい私たちはずぶぬれになり、低湿地の道では難儀でした。深くほれた轍に車輪はめりこみ、ねばり強い騾馬が懸命に曳いても輪は沈むばかりで、車軸が泥についてしまいます。わたしたちは車からおりて、男二人が荷台を持ちあげ馬をはげまして、やっと難所を通り抜けました。

 帰宅してから妻は寝ついてしまいました。私も昨日雨にぬれたためか気分はすぐれませんが、刈り時の稲をほっておくわけにはいかず畑にでました。
 夕方帰ってくると妻は下複の痛みを訴えます。出産予定日にはまだ二ヶ月もあるのですが、とにかく自分一人ではどうしようもないので、夕暮れの山の中を走って、山城の婆さんを頼んできました。
 眠れない一夜は明けましたがまだ生まれません。私は婆さんに任したものの、どうも不安でじっとしておれません。湯はわいているし、必要な品はそろえてあったので、私はすることもなく家の回りをうろつくばかりです。かすかなうめき声がもれ、婆さんの励ます声がします。
 「新次、ちょっと来なせい」
 婆さんが呼ぶので、私はもう生まれたのかと部屋にはいりました。座った婆さんの肩ごしに見たものは、下半身むきだしにして膝をたて股を広げた妻の姿です。濡れた陰毛をわって白い塊がはみ出しています。
 「逆子じゃでのう、出にくいわ、奥さんの頭のほうで力になってや」
 私は寝台に上がりこみ妻の頭を膝にのせ、両手をしっかりと握らせました。婆さんのかけ声に妻は歯をくいしばっていきみます。
 「それもう一きばりや」
 生まれでる子を手で受けるようにして励まします。妻は額に玉の汗をかいて、いちだんと叫び声をあげた時、
 「あー、生まれた。良かった」
 と婆さんが言ったのは、別の意味があったのです。私を見て老婆は首を横にふりました。出生児は泣きもせず、ぐったりとなって色が変わっていました。妻は薄目をあけて、
 「赤ん坊はー」
 と聞きますから、私も辛かったが首をふりました。妻はがっくりと虚脱したようになって、目に恨みをこめて私を見つめました。ハンカチで彼女の額の汗をふきながら罰せられている気持ちでした。
 「のう珠江さん、気をしっかりもつんやで」
 婆さんは死児のへその緒をきり、小さな着物をきせ北枕にして別に寝かしました。そして訳あるらしく、そっと私を呼び、
 「後産は出たがな、出血がひどいもんな、おらもこんなの知らん。医者に来てもらったほうが良いぞな」
 「来てくれるだろうか、道はひどいしな」
 「正夫を馬でやろう。農場から車ではしってもらおう」
 私がすぐ行こうとすると、婆さんは、
 「お前は病人から離れるでねえ」
 そう言い残すと、小走りに森の中にきえて行きました。

 私は婆さんのあわて方から、不安はつのる一方です。家にはいり妻の様子をみると、静かな寝息なので、ひとまず安心し、産後に心配がないような ら、明日にでも馬で死児の埋葬に町へ行こうと考えました。
 婆さんは近くの新垣さん、太田さんを連れてきてくれ、すぐに石油箱をこわして小さな棺つくりにかかります。何かと道具など私がそろえていると、
 「お前は珠江さんの側から離れたらいかん。これを見なせい」
 婆さんは青い顔をして、バーニャ(豚脂)の空き缶をかたむけて見せます。缶の底には両手のひらにあまるほどの、血のこごりが寒天のようにふるえています。私はいそいで妻の横にかけつけてみると、病人はこきざみに体をゆすり、
 「寒い」
 と訴えるので、手足にさわってみると氷のようです。熱い湯を瓶につめ布でまいて、足のうらにあて、蜂蜜を湯にといて血の気のうせた唇に、すこしずつ流しこんでやりました。      
 突然妻がむっくり起き上がろうとするので、私はあわてて肩をおさえ、
 「珠江、うごくと悪いから」
 「苦しい」
 と妻は私の手をはらいのけ、寝返りをうって、板敷きの床の前や後に布団もけってころがるので、あらわになった下半身いちめん血だらけです。
 あまりの事態に仰天した私は大声をだしたので、駆けつけてきた婆さんも病人の急変になす術もありませんでした。
 確りと握った妻の手に痙攣がはしり、顔にはもう死相がでてきました。このまま医者にも診せず見殺しにするかと思えば、胸がせまって無念の涙が頬をながれました。引きついて強いひきつけが起こり、体を弓のようにそらして、
 「あーっ」
 苦しそうに短い叫び声をあげたので、私は狂気のようになって、妻の名をよびつづけましたが、もうなんの反応もなく、痙攣のおさまりと共に息を引きとりました。

 馬の蹄の音が遠くからひびいてきました。
 「正男が戻ってきたな」
 婆さんは窓から見ていると、彼は開拓地をいっさんに駆け抜けて庭に入ると、汗みずくになった馬からおりて、
 「ドトールはすぐ来るよ、車が泥道でつかえ、牛でひっぱりあげるのに暇どった」
 「遅かったわい、小母さんとうとうこんなことになってしもうて、一ぺんに二つの葬式とはなあー」
 日ごろ、妻を自分の娘のように可愛がってくれた山城の婆さんも声をあげて亡妻の上に泣きふしました。

 翌日早く、本部から二頭立ての馬車が来ました。
 「もうお別れや、みんな焼香してや」
 山城さんの声に隣の人々が形ばかりの焼香をすまし、私の番になりました。妻は青みをおびた蝋色の顔を粗末な棺のなかに沈めて、一夜たっただけでもう別のものになっています。
 その顔はもう喜びに笑わず、悲しみに泣かず寂しがらない、これで永劫の離別になるかと思えば、人々の手まえ怺えにこらえていたのですが、いまはもう愛惜の情たえがたくなり棺にしがみつきました。
 「小林、あんまり泣いては仏にわるい」
 山城さんは私の手をとって別の部屋につれてくれました。馬方のさけぶ声に鞭がなり、鎖のすれる音車輪のきしむ音、馬車は出たもようです。婆さんが妻の使っていた皿を戸口にたたきつけたのか、乾いたあの響きは私の胸につきささり、永らく忘れることができませんでした。

 何か悪意のある見えない力が、私を責めさいなんでいると思いました。ここ一年ほどの内に兄と妻と子の三つの死は、どう考えても不条理に思われるのでした。
 私の体の衰弱とおとろえに、マラリアの病勢はすすんでいるようです。―今度は俺の番だ、さあ殺してくれ―と捨て鉢の気持ちでごろごろしていると、皮肉にもしだいに快方に向かっていきました。

 落雷にうたれた生木のように、真二つに裂けたここの暮らしを、私はもうつづけることは出来ません。苦労して植えつけたコーヒー樹も、初年度入金も土地代も、私にはもう意味がなくなりました。
 稲は収穫して金にかえ、家を出る日、着替えをトランクにつめ、壁の銃をはずして肩にかけ、家の中を見わたしました。炊事器具とわずかばかしの農具があるばかり、妻の亡くなったあとの住まいは、鬼気せまるほど寂として物音一つしません。
 私は戸口を閉めて家をあとにしました。山城さんの家により正男に銃を贈り、婆さんに礼をのべ後ろ髪をひかれる思いで分譲地を去りました。

 途中、サンタ・セシリアの町によって妻の墓に詣りました。小高い丘のうえの共同墓地はひっそりとして人影もありません。赤土の肌も新しい土饅頭に木の十字架がたっています。供花は枯れすぼみ燃えつきた蝋は流れて白く土にこびりつき、盛り土にはひびが走っています。
 この下に妻が埋まっていて土に帰ってゆくのかと思うと、すぎ去った日々の楽しみの数々は幻のように去来してたたずんでいると、後ろから足音がして墓守りが脇に立ちました。幾らかの心付けをわたして、折々の手入れを頼み、つきぬ心をのこして立ちさりました。


 それからは色々な事をしました。呉服屋の売り子から、仲買いの手先、鍛冶屋にいたこともあります。気が向けば一年か二年、嫌になれば十日で出たところもあります。
 その内戦争でやかましくなり、ひょんなことから将棋の縁で床屋の親方に知られ、私も三十近くでしたが、弟子の格好でいついてしまいました。この商売もその時ならったもので、そう気ままに出歩き出来ない時分でしたので、つい五年ものあいだ床屋にいました。
 戦争がおわると変な噂がながれ、親方は勝ち負けで店をあける日がおおく、しぜんと私が店を守るようになりました。

 そんな折、親方は二日家に帰ってきませんでした。今までそんな事はなかったので心配していると、見知らぬ人がきて、親方は警察の留置場にいるとしらしました。おかみさんはあれほど言っておいたのにと、ただおろおろするばかりです。親方はだいそれた事をする人じゃないからと慰め、隣の町の警察まで面会にやりました。
 帰ってきておかみさんの言うのには、大勢で集合している所へ警官にふみこまれ、そのまま拘引されたとのことです。そんな訳で私が親方がわりになって商売をつづけました。一ヶ月たちましたが釈放される見こみはありません。おかみさんは目を泣きはらして面会から戻ると、
 「どうも島送りになるらしい。わたしや健坊はどうなるんかしら」
 と訴えますから、気の毒になって、
 「おかみさん、親方が帰ってくるまで何年でもいてあげますよ」
 私の言葉にようやく安心したもようです。日ごろ、私によくなついている健坊のためにも、一肌ぬぐつもりで仕事に精をだしたので、親方のいた時よりも客はふえました。

 夏から秋に変わるころ、寝冷えから風邪をこじらせた子供が高熱をだしたので、医者に診せたところ肺炎とのことで、二夜の看病にげっそりしたおかみさんに変わって、私も診ることにしました。一週間ほどで子供の熱もさがり、危険期はすぎて寝息も安らかによく眠っています。
 「もう今年もしまいだよ、もう二ヶ月にもなるのにどうしたんだろうね、こんな時、親方がいないとほんとうに困ってしまう」
 壁の暦に目をやってつぶやく、おかみさんの愚痴は毎日きかされているので黙っていると、
 「なあー、新さん。お医者さんのお礼どうしたものだろうね、差し入れやなんやらでえらい物入りだろう。いま手もとにないんだよ」
 私も相談にのられては知らぬ顔もできず、
 「医者の代ぐらいなら立て替えておきますよ」
 「そうしておくれかね、親方も親方だよ、店をほったらかしてさ、お先棒なんかかついで島送りにでもなれば家はどうなるんだろうね」
 私は聞いていませんでした。今年もしまいだと言うおかみさんの話に、来る月の五日は妻の命日になります。暦をめくると日曜日になるので、
 「おかみさん、こんどの土曜日店をしめてからちょっと旅行してきます。月曜までには戻りますから」
 「新さん、おたのしみかね」
 と私の顔をみて、卑しくわらうので、
 「墓まいりです。こんどの日曜は妻の命日なので、ノロエステまで行ってきます」
 「そうー、毎年のことね、よかったんでしょう」
 「どんなに惚れあった仲でも死んでしまっては何にもなりませんよ」
 「あんたという人は情が深いのですよ、うちの人なんかは女子供をほったらかして、自分勝手なことをしているんだから」
 と言いながら私にすりよってきます。遅い夕食の後のことでした。事が終わってからつまらぬ関係になったと後悔しましたが、ぬるま湯の風呂につかったようで、出るにもでられないような嫌な気分ながら、ずるずると不倫の泥沼にはまりこんでゆきました。

 それから月の変わったある日、私がお客を扱っていると、
 「新次、戻れたぜ」
 親方は案外と元気で店にはいってきて、小指をたてて目で知らせますから、
 「お帰りなさい。無事でなによりです、みなさん達者ですよ、奥にいられます」
 と笑顔で迎えたものの、これは危ないと気がつくほど剃刀をもつ手がふるえました。

 その夜は親方の無事帰宅を祝って、馳走がならびビールの瓶も立ちます。久しぶりに体の垢を洗いおとした主人はくつろいだ気持ちで上機嫌です。
 「なんといっても家が一番ええわい、風呂のないのはこたえたなあ、体中がかゆくなってよお」
 「新さん、親方の体の垢といったら、へちまでいくらこすっても苔みたいに、ぼろぼろ取れるんだよ、びっくりしてしまった」
 おかみさんは情を通じた私を恐れて、わざとはしゃいでいるように見えました。
 「よし江、新次に注いでやれ」
 女は意味のある微笑をふくんで、私のコップにビールをつぎます。 
 「ぐっとやってくれ、あー、そうと、子供の病気の折はたいへん世話になったそうで」
 「あんた、お医者さんの代も、新さんが立て替えてくれたんだよ」
 「いや、すまん」

 自分の留守に妻を寝盗られたとも知らない、好人物の親方を見て、悪い事をした、もうこの家には長くはおれないと考えました。
 今日こそは暇をもらおうと思うものの、つい言いそびれている内に、ある日、親方は私をよんで、
 「お前にはずいぶんと世話になったが、近い内に店を売ろうと考えているので…、どこへ出しても腕のよい職人でとおるお前だから、もっと実入りのよい大きな都会へでもいって稼いでくれ」
 と言いにくそうでした。これはてっきり女の指図と感じましたが、私にはかえって好都合なので、親方には心から礼をのべて、トランク一つの身で飄然とB市にきました。

 もう人に使われるのは嫌ですから、気ままにしながら飯の食える仕事はないかと、虫の良いことを考えあぐんでいますと、ふと―これはいける―と思いついた仕事があります。
 親方の店で働いていた時分、月のうちに何人かは、切れ味のにぶったバリカンや剃刀を持ってきました。親方はよい顔はしませなんだが、私が暇をみては仕上げていました。これならきっと商売になるとおもい、金物屋で荒砥石に仕上げ用をもとめ、鍛冶屋にいた時分ならった鋸の目立て仕事に、ヤスリ大小いくつかを買い、邦人の植民地を当てに行き先のない旅に出ました。

 気ままな放浪生活をつづけるうちに、物ぐさが身にしみて、サン・パウロの奥地からパラナ州までうろつき歩きました。      
 私の旅にでた頃はまだ人の心も暖かく、食事や一夜の宿に事かくことはなく、中には面白がって私のような流れ者の見聞をきいてやろうとする人もありましたが、戦後の経済のインフレがつのるにしたがい、人心も荒んできてよほど親切な人に出会わないかぎり、野宿するような目にあいます。
 以前この先に○○植民地があったはずと訪ねてみますと、昔のおもかげは跡かたもなく、茫々一面の荒れ牧場で、ところどころ先住者のうえた竹のむらがりがあるばかり、仕事の当てはずれだけでなく、移り変わる世の中を現実にはっきりと見せつけられました。

 私の目的もないような放浪の旅にも一つの念願がありました。それは大石の家族のその後の様子です。行く先々でそれらしい家族に会えば、それとなく観察したり人にも尋ねてみましたが、杳として彼らの行方はわかりません。貧乏の果て邦人社会から脱落して、外人の中に入りこんだとも考えられますが、親父さんはもう生きているとは思われません。
 せめて信吾にでも会って、いつどこで行き倒れになるか分からない身の上ですから、肌身から離したことのない妻の遺髪をわたし、姉としての供養を頼むつもりでした。
 ところがこの店をあける一年まえ偶然に大石の所在が知れました。

 もう一昔にもなりますが、ある年のこと、北パラナの奥へ旅をしました。気が向いてそれまで行ったことのないC郡まで足をのばして邦人の部落に入りました。オニブス(バス)を捨ててとっつきの農園を訪ねました。
 木造の地主屋敷を中心に幾棟かの倉庫、それにそった広い乾燥場すべてがよく整っていて、裕福らしい耕地です。なによりも見事なのは丘に向かって整然と植わっているコーヒー樹です。五年前の霜害も軽くてすんだのか、濃緑の葉のしげりは陽光をうけて、油を流したように照りはえています。
 玄関に立って来意をつげましても、裏のほうで犬が吠えるばかりで人の気配もありません。しばらくたたずんでいますと、倉庫から四十がらみの太った主人らしい男がでてきました。
 「研屋です、剃刀、鋸の目立てなどします」
 長年どこででも言ってきた口上を申しますと、主人は私を倉庫の前につれていき、大小五丁の鋸をだすと、あまり口をきかずに屋敷にむかいました。
 ―朝っから、こんな仕事が貰えるなんて、今日は運が良いわい―、と嬉しくなり木綿の蔭にすわって仕事をはじめました。これは自慢ばなしになって恐れいりますが、私はまだいいかげんな仕事をした事は一度もありません。とくにバリカン研ぎには自信があります。子供さん方の頭髪をかるぐらいなら、頭の砂埃さえ気をつけてくだされば、二年ぐらいは毛を引くことはありません。
 それで一度仕事をもらった家では、再び行くとよく憶えていてくれて、仕事をさせてもらったものです。私はいったいに凝り性でして、仕事に熱中して一心に働いている時が、浮世の苦労を忘れた一ばん楽しい時間でした。自分の気のすむまで充分に仕上げて、もう一度ためつすがめつみて納得したので、道具類をしまい一服していますと、主人がみえて手間賃をきかれるので、―一ちょう三十ミル(旧貨の名)いただいています―と申しますと二百ミル札をくださり、―もう昼だから茶でものんでいけ―と先に立って行かれます。
 私はしびれた足をひいて、事務所ふうな客間に入りました。一見無口らしいこの家の主も、私のような者を相手に世間の事情などきかれます。
 「ここには、もう古くからお住まいですか」
 話の穂をつぐつもりで、私が尋ねますと、
 「ここでは十年と少しだが、パラナでは三十年以上になる。少年の頃親父に連れられてきた。四年と六年の農園育成の契約を二回した。ひどい境遇のなかで前からの深酒がたたって、頼みにする父にはぽっくり死なれた。母にはいくらか楽をさせましたが、亡くなる前に、ある事情で行方の知れない私の姉のことを気にしていたので、死に目に会わしてやりたかったが、その頃は思うにまかせず心のこりです」
 話しおわった主は壁の上の額を見上げるので、私も目を移したとたん、思わず、
 「あっー」
 と低い叫び声がでました。同時に茶碗は手からすべって床に落ちました。
 壁の上には大型の額縁に大石夫妻の肖像がかかっていたのです。長い間捜し求めていた大石の家族と、こんな処で出会うとは夢にも思いませんでした。
 主人はびっくりしたとみえて、けげんな顔で私を見つめました。
 「どうも年をとりますと仕事の後などで、手がしびれて困ります」
と粗相をわびました。
 主人は茶碗をかえてすすめてくれましたが、私は心が顛倒してしまってそれどころではありません。早々に暇をして逃げるように大石の家を後にしました。コーヒー園の間道をいそぎ郡道にでて、やっと胸の動悸がおさまりました。

 ああー、あの屋敷の主人は珠江のすぐ弟の信吾にちがいない、そう見れば三十幾年のちの今でも、少年の頃の面影がありありと残っていました。初対面の時はなんの気もつかなかったが、鼻のわきの大きな黒子はなによりの証拠です。大石の家も世にでてくれたかと、安堵の喜びと共に、言いしれない寂しさがひしひしと骨にまで滲みてきました。

 随分と苦しい事もあっただろうが、その苦労が報われて今なに不自由のない、陽のあたる場所で暮らしているようです。私のような風来の者に向かっての態度からでも、心の暖かい人間なのは分かりました。そんな家庭に身内とはいえ、どうして名のってでられましょう。
 不運な者は不運なりに生きる道を選べると考えました。私もよる年波で放浪の旅もしだいに苦痛になってくるし、また大石の居所も分かったとなれば、旅の目的もなかばなくなったようなものです。小額ながら貯金もあったので、気にいったこの町で店を開けました。

 長々とつまらぬ身の上ばなしをしましたが、もう夜半も過ぎましたでしょうな、この辺で休ませていただきましょう。

  ( 完 )
 
「農業と協同」1970年7・8月号初出


 


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