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岡村淳のオフレコ日記
     西暦2023年の日記  (最終更新日 : 2024/01/02)
6月の日記 総集編 聖アントニオと地の味噌

6月の日記 総集編 聖アントニオと地の味噌 (2023/06/01) 6月1日(木)の日記 ブラジルの黒人問題
ブラジルにて


6月になってしまった。
次回の訪日に備えて、編集作業が延び延びになっていた拙作のまとめに着手せねばならない。
7月に決まった東京での上映(これは僕はオンライン参加)の素材準備の目途はほぼ付けた。

いっぽう、今日からブラジル環境映画祭のサンパウロの部が始まる。
これは僕にとってこちらでいちばん収穫と学びの多い映画祭だ。
一日に何本もハシゴしたこともしばしば。

今年は自分の作業の都合、そして家庭の事情もあり、映画祭には深入りしないようにする。
まずは紙刷りの映画祭の予定表もほしい。
今日の午後のひとプログラムをのぞいてみることにする。

ブラジルの黒人問題についての短編3本の上映。
うち『Medo na Minha Pele』という作品が特に衝撃だった。
訳すと「わが肌への恐れ」といったところか。

自分が黒人系だというだけで、仕事中に、あるいは公道を歩いていて犯罪者扱いされて通報されて、警察から暴行を受けたという人たちの証言が続く。

日本ではブラジルの先住民、といってもアマゾン地域限定だが、これの方はメディアで日本向けに加工されて消費されることはしばしばだ。
いっぽう黒人問題は、せいぜいカーニバルネタのなかに少し盛り込まれるぐらいだろう。

自分の関わった先住民の問題とともに、こころに留めて学びを続けたい。


6月2日(金)の記 ジオ萌え
ブラジルにて


今日の午後から日曜夕方まで、また泊まり込みの食事当番だ。
場所は、サンパウロ大学学園都市の近く。

そのついでに、先週は大学内の考古民族学博物館に寄ってみた。
ずっと行きそびれていた待望の場所。
だが…

サンパウロ州周辺の、僕も知らなかったような部族の民俗品がひとつのフロアに展示してある程度。
説明はQRコードにアクセスせよ、とな。

日本の地方の役場付属の小さな民俗資料室、ぐらいなところ。
して、考古のものが見当たらない。
スタッフに聞くと、考古部門はグループにて要予約の由。
そうまでして見たくないよ。

さて今日は「口直し」に同大内の地質科学博物館を訪ねてみようと思う。
どうせタダだし。

外にこれといった表示もなく、校舎のうえのフロアにあるようだ。
これといったチェックもなし。
ここも中学生ぐらいのグループでにぎわっている。

地味で古色蒼然たる、といった展示だが、それでいてなんだかおもしろい。
さすがはジオ超大国ブラジルだ。
多様な鉱物、動植物の化石。
恐竜化石はあちこちに跋扈飛翔している。

地層や化石、鉱物図鑑にもえたわが小学生時代を想い出す。
小学校高学年の理科の授業の影響か。

世のなかでは考古学と地質学の区別もわからないようなドラマもあるけれども。
人間ごときの作用のおよばない地質科学の世界へのサウダージ。
かつて慣れ親しんだ鉱物図鑑の写真や解説文までもが浮かんでくる。

このムゼウ(博物館)はまた来てもいいかも。


6月3日(土)の記 ジミー東郷
ブラジルにて


出先で料理番の一日。
夕食は準備に2時間、食べるのに20分、先方がなにを食べたのか覚えているのは食後2分。
そんなところか。
夕食後、NHKの国際放送の鑑賞に付き合う。

サンパウロ時間20時。
通常なら、連続テレビ小説と…
その後の金曜の番組は特に不愉快で、この時は席を立つ。

さて、土曜は…
ほう、『小さな旅』か。
今日は「恵みの池 笑顔あふれて~ 鳥取県 東郷池~」ときた。
東郷池の知名度はどれぐらいだろうか?
僕はコロナ前、中国地方とくに鳥取での上映お呼ばれが続き、この東郷池を何度も拝んでいる。

地図で見ても海からやや離れているのだが、ここが汽水湖だと番組で初めて知った。
この畔に「汽水空港」というしびれる名前の書店があるのだが、実際に汽水域だったとは。

パンデミック中に亡くなった畏友の赤木和文さん。
http://www.100nen.com.br/ja/okajun/000236/20230205017131.cfm?j=1
彼は岡山市の福祉施設ではたらきながら、さまざまな文化を享受して自らもイベントをプロデュースすることもあった。
赤木さんはパンデミック中に岡山からこの東郷池のほとりに移住して、汽水空港でのイベントや畑仕事にも参加していたという。
赤木さんをこの地に引き寄せたのも、汽水の潮力か。

さて、番組は地味だが面白かった。
まず「登場」するのが東郷池でオオシジミをすなどりする男性。
父親からシジミとりを叩きこまれたという。
夜は居酒屋のおやじさんとなり、オオシジミ料理を供している。
しじみなだけに、滋味で、番組は地味という次第。

東郷というと、デューク東郷、そしてグレート東郷を想い出す。
グレート東郷のことを検索してみると、まことに興味津々。
この人、岡村姓だったとも。

敗戦後のアメリカ合衆国で米国民の反日感情をあおる日系悪役プロレスラーとして、たいへんな「不人気」を買った由。

あらたに世界に反日感情が沸き起こる日もそう遠くないかもしれない。
いつ起きてもおかしくない大地震による福島原発の原子炉の崩壊、あるいは新たな原発の爆発。

今度はどんな名の日系悪役レスラーが登場するだろう。


6月4日(日)の記 アンコールのアンコール
ブラジルにて


奉公先にて。
垣根涼介さんの『ワイルド・ソウル』を久しぶりに再読、隙間の時間に読み続ける。

と、テレビの間からお呼びがかかる。
NHKの国際放送でアンコール文明についての番組が始まった。
『幻のアンコール文明 最新調査で迫る滅亡のミステリー』。

ちょっとだけよのつもりが、最後のクレジットまで見てしまった。
いい意味で地味であり、テレビの考古もの特有のハッタリの少ない、まさに地に脚をすえた取材を感じた。

僕は日本の考古学の発掘最前線に関わって以来、とくに日本人の関わる考古学にはいい印象を持たないことが多かった。
ところが、かなりひさびさに考古学のあるべきダイナミズム、ロマン、いまに生きる人々そして地域との理想的な関わり方を味わう思いがした。

番組の主人公でもある日本人の大学教授に既視感がある思い。
ひょっとして、と思ってスマホで検索すると、ビンゴ!

この人とは西暦2005年、僕のアンコール遺跡取材時にお会いしていた。
発掘現場での彼の作業風景が拙作『KOJO ある考古学者の死と生』に収められている。
http://www.100nen.com.br/ja/okajun/000044/20060701001978.cfm?j=1

その後、よくぞここまで。
わが生涯の学兄・古城泰さんの歩み求めた考古学のあり方を、この人がかなえてくれた気もする。

こちらの邦字紙の「ラテ欄」から番組名を確認してNHKのウエブサイトを見ると、本国では4月に最初の放送をされた由。
当時の関係者にメールを送ってみよう。


6月5日(月)の記 ワイルド・ソウルの奇矯
ブラジルにて


あらたに重いテーマの作品の編集を始めるにあたって、気も重い。
そんなこともあり、テーマに呼応する部分もある垣根涼介さんの大作小説『ワイルド・ソウル』の再読を午前中からいっきに進める。

ブラジル在住者には、ちょっとこれは、と思う箇所もあるのだが、そんな重箱の隅はほっとき、というぐらいのストーリー運びの強い力と面白さがある。

わが家には単行本と文庫本の両方がある。
単行本には垣根さんのサインがあるが、献本していただいた覚えはない。
当時、東京での拙作上映会に垣根さんがいらしてくれると知り、持参してサインをいただいたように記憶する。

作中の地名や場所名の表記の問題について本人に直接、伝えたが、そうしたことにはこだわらない、と返信をいただいたと覚えている。
文庫版では多少の修正があったかな、と思って文庫本も買ったかと記憶する。

今回は文庫版で再読したのだが、たとえば日本でも知る人ぞ知りブラジル領アマゾンの露天掘りの金鉱「セラ・ペラーダ」がスペイン語読みの日本語表記「シエラ・ペラーダ」となっているなど、そのままだった。
単行本との相違で気づいたのは、単行本の地図では「トメ・アス」となっている地名が文庫本の地図では「トメアス」となっていることぐらいか。

話は、第二次大戦後の日本政府のずさんなアマゾン移住政策の犠牲者たちが、復讐をはかろうという、ぞくぞくするものだ。
「この作品は歴史上の事実を素材にしています」とあるが、アマゾンと移住政策についての記載についての指摘以外に、映像関係者として気になったことを2点ほど。

ストーリーは1960年代のアマゾン移住と「現在」の両軸で展開する。
「現在」編の主人公のひとりは東京の大手民放局のテレビキャスターの女性だ。
そのためにテレビ業界の用語も出てくるのだが、撮影クルーでカメラマンとともにはたらく「VE」と呼ばれる職種について「ヴォイス・エンジニア」とルビが振ってある。
はて、VEといえば、ビデオ・エンジニアではなかろうか?
業界内でも用語の不統一もあるので、検索してみる。
ボイス・エンジニアだとヒットもあり「音楽編集ソフトを使った音楽編集の技術者」とある。
報道番組の現場取材でこういう役割の人が加わるとは考えられない。

もうひとつは、アマチュア用のビデオカメラについて。
作品ではアマゾンの移住地を命からがら抜け出した日本人移住地が、後に悲惨な状況を体験した日本人移民たちをビデオカメラを持って撮影して回る、という設定。
作品の設定から二十年以上、前に撮影したということになっている。

この書下ろし作品の発行は、2003年8月だ。
垣根さんは文庫版のあとがきで、この年の3月に脱稿したと書いている。
作品内の「現在」の話は、ある年の6月から7月にかけてのことだ。
エピローグにそれから9か月以上、経ってからのエピソードが添えられている。
エピローグは「近未来」のことと解釈するとしても、「現在」は2002年ごろということになろう。

ここでいわゆる「民生用」の一体型ビデオカメラの発売がいつに始まったかを調べてみた。
1983年だった。
僕の記憶でも、日本でもブラジルでも映像通がこうしたビデオカメラを購入、使用するようになったのは80年代半ば過ぎからだ。

作品の設定の1980年ごろにこうした証言の記録をするとなれば、せいぜいカセットテープレコーダーでの音声ということになろう。
僕自身がそうだった。

『ワイルド・ソウル』が愛すべき作品だから故に、こんなことも調べて書いておきたくなった。
移民ものの、日本政府なみにズサンな取材や設定の小説やルポについては、なにも書く気もしないもので。

ちなみに、今日のタイトルの「奇矯」はこの作品に登場する「桔梗」にかけたオマージュ💖


6月6日(火)の記 ご近所の異人たちに
ブラジルにて


昼過ぎまで、独自の手順でビデオ編集をナメクジの匍匐速度ですすめる。

さあ、今日もエコロジー映画祭を1セッション見に行こう。
その前に会場から徒歩圏の、何度か行った「お気に入り」のつもりのカフェに寄る。
どうしたことか、マスターにぞんざいに扱われ。
もう、わざわざこのお店に来るのはやめておこうかな。

今日もなんの予備知識もなく、ブラジルの短編数本を上映するセッションを選んだ。
ブラジルのLGBTについての特集だった。

なかでも『Xicas de Ianlá』という長さ9分の作品に大きな気づきと反省の機会をもらった。
https://ecofalante.org.br/filme/xicas-de-ianla

サンパウロの二人のトラヴェスチと呼ばれる人を紹介する作品。
トラヴェスチという言葉は、ブラジル移住前に覚えた単語のひとつ。
日本語で検索してみると「女装した性労働従事者」という定義が見つかる。
この作品の二人は歌手になることを目指しているので、「性労働」にはあたらないだろう。
ポルトガル語で定義を検索してみると、異なる性の服装をまとう人、といったのにあたる。
体に加工をする人も少なくないようで、いずれにしても定義そのものでこんがらがってくる。

わが家から遠からぬ大通りの一角で、性労働に従事するこの人たちが「営業」している。
知らないで通れば、中の上クラスの住宅街といったところか。

僕は車で通る程度だが、先方は運転手に向かって目を引くモーションをかけてくることもある。

僕はこの人たちに好奇の目を向けるばかりだった。
もっとこの人たちについて知りたいが、向こうはまさしく体を張って仕事をしている。
「買う」気もなく、かといって取材や調査をしようという気までは持ち合わせていないから、ただの冷やかしの部類といえそうだ。

この人たちを、人としてとらえていない自分の差別意識があるのではないか?

反省とともに、今後を考える。

そういえば、いつものポイントではこの人たちをほとんど見かけなくなった。
近くの学校の登校下校時間にも見かけることがあったのだが。


6月7日(火)の記 お言葉ですが
ブラジルにて


今日も午前中はビデオ編集、午後から環境映像祭の作品鑑賞。
今日はダウンタウンの日系人もほとんど見かけない、ひと言でいってヤバい地区にある映画館。
本編上映前に映画館でのセクハラ行為の告発を促す画像が流されるからには、そういう事態が起きているのだろう。

今日はこちらの先住民のものが2本、いずれも衝撃を受ける。
「こちらの先住民」という言葉を用いる私。

この人たちをどのように称して記載するかで、こちらが問われることになる。
「インディオ」という言葉を僕も日本のテレビ屋時代から使ってきた。

近年、ブラジルでは indio という言葉を避けて povo indígena(インディオ系の人びと)あるいはそのほかの言葉を用いようという声が強くなってきている。
これはインディオという名称が、ヨーロッパ人が新大陸をインドと間違えたことに発する言葉だからということよりも、インディオと一括してくくることで、それぞれのグループの多様性・独自性を度外視することを避けるため、という意味合いだというのが今の僕の理解だ。

当事者たちがそう自分たちを称するのはともかく、他者の側としてはそれぐらいの敏感さは心得ておきたいと思う。

そのあたりの前置きをして、『Terra dos Índios:インディオたちの大地』という西暦1979年制作のドキュメンタリー映画に感心した。

かつての僕も含めて当時も今も日本の商業メディアとそれを享受する人たちにとっては、ブラジルのインディオ=アマゾン限定、といったところだろう。

ところがこの映画はこの時代にしてアマゾニアから遠く離れたブラジル最南部のリオグランデドスル州、パラナ州の先住民の闘いを中心に紹介している。
ちょっと見ただけでは、先住民かどうかもわかりにくい人たちだ。
アマゾニアの先住民も紹介されるが、ブラジルに存在しない「ジャングル」は出てこない。

僕自身も所属していた日本のメディアでは、はじめから企画の対象にならない人たちだ。
今日もまた反省。

それにしても当時のブラジルで、これだけオーソドックスなドキュメンタリー映画が制作されていたことも衝撃。
こうしたブラジル南部の先住民たちの闘いと、その後に盛んになった土地なき農民たちの運動との関係も気になるところ。

さあ、僕はどうしよう。


6月8日(水)の記 聖体祭の休日とミナマタ
ブラジルにて


今日のブラジルは聖体祭の休日。
体育祭ではない。

今日は日中をメインに、早朝から夜更けまで活動。
なんとかそこそこに乗り切ったか。

夜の21時30分からのエコロジー映画祭での『Amazônia, A Nova Minamata?』の鑑賞に駆けつける。
訳すと『アマゾン、新たなミナマタ?』といったところ。

約30年前に僕が通い、昨年の日本の報道番組も取り上げたアマゾン河の大支流タパジョス川流域での金採掘にともなう水銀汚染問題について。
途中で少しうとうとしてしまったので、あまりエラそうなことは書けない。

後半から土本典昭さんの映画や桑原史成さんの写真がインサートされて、実際に「いま」の水俣を取材したシーンも登場。
チッソへの「怨旗」がはためくモノクロの動画が何度も登場。

インパクトは強いが、水俣病の問題とアマゾンの水銀汚染の問題の汚染発生の原理や構造の比較検討はすっぽかされている感あり。

そういう自分は、なにをすべきか、考える。


6月9日(金)の記 とりかえヤバ上映
ブラジルにて


今日も午前中に自分の作業を終えて、午後からドキュメンタリー映画祭の2セッションの鑑賞へ。
セントロ:センターとはいえ、場末感リスク感あふれる一帯に位置する会場へ。

2セッションとも、おもにブラジルの短編作品上映、のはずだったが…
1セッションめは、特に問題なし。

そもそも事前にプログラムを一瞥するだけで、なんの予備知識も持たずに見ているのだが…
この映画祭では、観客にそれぞれの作品の5段階を求められる。
上映前に配られる紙に印をつける方式だ。

この会場はスタッフがルーズで、上映開始直前に会場にやってきて、ばたばたと準備をするのが常。
投票用紙にはスタッフがばたばたと直前に手書きで作品名を書き込んでいる。

さて1セッション5作品の短編をいっきに見ると、鑑賞後にどれがどれだったか混乱する。
特に最近は記憶力の衰えもあり。

上映後に手書きの読みにくい筆記体で書かれた作品名の判読にかかるが、どれがどれに相当するかがわからない。
ぜひイチ押ししたい作品があったが、どれだかわからず。
申し訳ないが、テキトーに評価。

そのあとであらためて今日のプログラムを見てみる。
おお、明らかに今日の2セッション目の5作品は明日の2セッション目とそっくり間違えて上映している!
それでいて投票用紙には、ほんらい今日上映するはずの作品名が書かれていた。

会場には20人も観客がいなかったと記憶するが、それを誰も指摘する人もなく、受付で見てもいない作品の評価を書き込んで投票していた!

先日のドキュメンタリー映画祭での、ゴダールの『映画誌』(これは僕の翻訳題)上映の際に取り違え上映を指摘して、スタッフに一蹴されてしまった。
あのシリーズはまことにどれがどれだかわかりにくいが、今日のの取り違えは明らかだ。
コンペ作品でありながら、5作品の関連スタッフは誰も来ていなかったのだろう。

なんだか悲しくもあるが、無料の上映だし、クレームをしてどうなるものでもなさそう。

それに取り違えのおかげで見ることのできた『Um Tempo para Mim(英題 A Time for Me)』というブラジルの短編について特筆しておきたい。
ブラジル南部(アマゾンではない)のグアラニーと呼ばれる先住民の少女フロレンシアが主人公。
母親はどこかに出稼ぎに行っているようで(父親の存在は不明)、彼女は祖母と暮らしている。
そろそろ初潮の時期となり、祖母は部族としての心構えを伝え、少女は仲間たちにその体験を聞く。
セリフはひと通り、グアラニー語である。
時あたかも月食を迎え、祖母はそもそもまず村の女は月と結婚するのだと語る。
少女のための薬草の配合で、祖母は村の他の女性と知見を交換する。
その女性は、自分は夢での教えに合わせて調合していると語る。

西暦2022年の制作。
よくぞこんな映画をつくってくれたものだ。


6月10日(土)の記 動画という道具
ブラジルにて


今日も、変則の動き。
午後、環境映像祭の1セッションをサンパウロ文化センターへ見に行く。
ここは昨日の会場よりスタッフも観客層もランクが上。
さすがに上映プログラムの取り違えもなし。

いずれもブラジル製作の5本の短編。
今日も、なんの予備知識もなし。

リオデジャネイロ州でのダム建設を告発する短編があった。
いま、僕が編集を始めた作品の舞台にかなり近そうだ。
こんな地名を多くのブラジル人は認識していないだろう。
このあたりを、トンボの取材でも訪ねている。
縁ありと感ず。

南マットグロッソ州の先住民が、自分たちの村を夜間に大農場主らの用心棒らに襲撃され、火を放たれるのを撮った短編は衝撃。
『Tekoha』という作品で、事件は2021年のことだ。
スマホ撮りだろうと、動画というツールはこうした告発のための証拠となり、武器となる。

わが祖国ではスマホ動画はバイトテロやら性暴力の凶器として用いられるばかりでは?

いやしくも動画遣いの分際として、このことはよくよく考えていきたい。


6月11日(日)の記 第3ターミナルの建屋
ブラジルにて


午前5時前到着予定のフライトで身内が戻ってくる。
サンパウロのグアルーリョス国際空港に思い切って車で迎えに行くことになった。

この空港に日本からの知人を車で迎えに行き、帰路にニセ警官に襲撃されて殺されかけたことがある。
それ以来トラウマとなり、空港に自分の車で行くのは極力、避けていた。
が、そうも言っていられず。

サンパウロの日の出は6時45分前後だから、出家時は真っ暗である。
大サンパウロ圏で深夜の信号待ち停車をしていて男二人に襲われたこともあり、ますますビビる。

到着予定は第3ターミナル。
この空港の三つのターミナルの番号は何年か前に替えられたりと、なかなか泣かせてくれる。
そもそも僕は第3ターミナルの駐車場を使ったことがなく、位置もよくわからない。

あたりは暗く、標識も見えづらい。
福島原発の建屋を二回りぐらい大きくしたような、四角い建造物が第3ターミナルのあたりに見えてきた。
これが駐車場なのだろう。

暗いなか、はっきりした表示もないので行き過ぎてしまい、Uターンは何キロも戻らなければならず…

ようやく「建屋」付近に戻るが、「入場制限中」とある。
まるで事情がわからない。
なんとか駐車場内部に乗り入れるが、地上部全6階あるものの、すべて満車とある!

すでに到着した家人と携帯で話す。
飛行機は第3ターミナルに着陸したが、免税店を出ると第2ターミナルだった由!

駐車場に立ち入っただけで34レアイス、約1000円払わなければならない。
ここからまた第Uターンをして第2の駐車場にたどり着くだけでもかなりの時間がかかりそう。

けっきょく到着者に10数分歩いて第3まで来てもらった方が確実そうだ。
そうこうしているうちに第3の駐車場にも空きがでてきた。

早朝到着便の送迎の車が出始めたのだろう。
それにしてもこの満車は、なんなんだ?
…木曜が祝日だったので、週末を連休にした人たちがごっそりと旅行していたのだろうという予想あり。

なにせ勝手がわからないので、さらに試行錯誤を重ねたうえで、ようやく到着者と落ち合う。

イヤハヤこれで少しは第3ターミナルの駐車場の勝手もわかったが、いずれにしろもう過去の人となってしまった感あり。


6月12日(日)の記 変人の日
ブラジルにて


今日のブラジルは、恋人の日、とか。
これなどはズバリ広告会社の、いわばでっち上げ。
とはいえ、1948年のことというからそこそこの歴史がある。
ま、あんましというかほとんどまるで関係ないけど。

こちとら変人の日だ。
編集作業中の素材の問題を発見。
ふたたび取込みのやり直し。

午後、買い物。
ロゼか白のワインの特売はないかと物色。
…けっきょく安い大衆酒カシャッサ(ピンガ)の大衆銘柄のさらに特売のを買う。

リングイッサ(ソーセージ)、卵チャーハン等の夕食の準備をしながらキッチンドリンク。
昨日の路上市でライムを1ダース買って来てある。
カサッシャ、ライム、ザラメ、氷で自家製カイピリーニャ。
それぞれの濃度、溶け具合が刻々と変わり、ひとくち一期一会の味わいを楽しむというわけ。

今日のつもりだった泊りの料理番が、明日になった。
さて献立をどうするか、思案開始。


6月13日(火)の記 聖アントニオと地の味噌
ブラジルにて


今日はカトリックの聖アントニオの記念日。
聖アントニオは縁結びにご利益があるとされて、それに当て込んだブラジルの広告屋がその記念日の前日を「広告の日」と定めてしまった次第。

さて、僕にはほとんど用いていないが、アントニオというブラジル向けの「源氏名」がある。
「源氏名」という言葉の由来とそれを僕のこの「霊名」の表現に使う意義もそれなりに面白いが、またいずれ。

して、思い切って早朝7時からの徒歩20分ほどのカトリック教会のミサに行ってみようと発心。
来てよかった。
ミサのなかでの神父の説教より。

聖アントニオというとブラジルでは恋人探しのご利益ばかりがもてはやされています。
しかし、聖アントニオのほんらいの生涯を想って、そこから学びましょう。
今日の福音(聖書にあるイエスの教え)にあるような「地の塩」のはたらきです。

まあ、こういったところ。
このイエスの言う「塩」の役割は日本人には「味噌」の方が沁みるかな、などと最近、考えていたところ。
「そこがミソなんですよ」といった表現で、どうしてミソなのかを調べていて。

聖アントニオはパン屋の守護聖人、貧者にパンの恵みをもたらす聖人としても知られている。
僕も今朝未明にパンを購入してミサに持参した。
神父がミサ後にこのパンを祝福してくれるのだ。

パンに味噌も意外に合うかもしれない。
どちらも発酵食品だし。

聖アントニオについては、日本語で検索してもいろいろネット上に読み物があるので興味のある方はどうぞ。


6月14日(水)の記 『他者の発見』
ブラジルにて


サンパウロ市内の親類のところから、車で朝帰り。
日の出前、6時半に出るが、すでに朝のラッシュが始まり出していていささか驚く。
暗いうちから、皆さんご苦労なことである。

18日の横浜での上映の主催者とオンラインのテスト。
さっそくこちらの回線が落ちる。
今日は終日、回線が不調で往生する。

夜。
20時からの『A INVENCÃO DO OUTRO』(『他者の発見』といったところか)の上映にアウグスタ街にかけつける。
ブラジル領アマゾンの最西端ジャヴァリ地域の先住民コルボとのFUNAI(国立インディオ局)スタッフの接触活動の記録。
コルボと僕の関係は、立教大学の紀要に少し書いた。
http://www.100nen.com.br/ja/okajun/000236/20221210017045.cfm?j=1
主人公のインディオ保護官ブルーノさんは、昨年6月に現地の密漁グループに殺害されて、日本でも外電などが伝えられた。

終映は23時過ぎ。
場内の熱い拍手。
ブラジル政府の先住民保護区改悪の法案に反対する声が上がり、僕も唱和。

想いあふれて、涙。


6月15日(木)の記 Uýra
ブラジルにて


今日もアマゾンを舞台にしたドキュメンタリー映画の秀作を見てしまった。
昨日のものとは、まるで毛色は異なる。
『UÝRA − A RETOMADA DA FLORESTA』、訳すと、ウイラ‐森を取り戻す、といったところか。
ほう、製作国はブラジルとアメリカ合衆国か。
だいぶ大がかりな仕込みとみていたが。

ウイラは、アマゾン中流の大都市マナウス近郊に住むトランスジェンダーのアーチスト。
作品の紹介文で、この人のことを「彼」「彼女」のどちらの語で書いているかを見るが、どちらも用いず名前の「ウイラ」を用いている。

ウイラは独学でエコロジーを学び、そのメッセージを語りやパフォーマンス、身体表現でアマゾンのさまざまな人たちに伝えていく。
、とまあこんなところだろうか、かいつまむと。

日本あたりだとアマゾン=ドットコムでなければ先住民、といったところだろうが、そうした前々世紀的観光視点は「日本スゴイ」とどっこいどっこいだと思う。

先住民というアイデンティティをもたず、金銭やハイテクに頼らずにどのようにアマゾンを表現するか。
ウイラさんは驚きの表現をやってのけている。

何回も見ていたい作品だった。


6月16日(金)の記 サワードゥ
ブラジルにて


ブラジルにいて接する最新の日本語情報は、おもにSNS経由となる。
日本のグルメ記事のなかに「サワードゥ」という言葉があった。

今どきの在日日本人は注書きなしで「サワードゥ」という語を見て、なんのことだか理解できるのだろうか?
文脈からすると、ベーカリーにあるもので、なにか酸っぱそうな語感のあるカタカナだし…
検索してみると、やはり。
イースト菌を用いず、自然発酵の酵母を使用するパンのことだった。

ブラジル、特にサンパウロではこれが静かなブームといったところ。
僕は自然発酵パンや天然酵母パンといった言葉を使ってきたが、これからは「サワードゥ」でいいのかな?

僕はこれを志向・嗜好するようになったのは、パンデミック以降。
わが家からメトロにして二駅ぐらいの距離のところに、ざっと5軒の店がある。
いずれも個性的。

特に僕のお好みは、そのなかの一軒のクルミとゴルゴンゾーラチーズ入りのもの。
これは早いうちに行かないと、売り切れてしまう。
今日は出遅れて昼時間になってしまったが、最後の一個にありつけた。

おもに朝食用だが、夕食前に家人と少しいただく。
やはりオイシイ。

安いものではないが、おいしくてカラダにいいものをいただいているという実感がある。
時間と手間がかかり、量産のきかないこういうものをこさえている人たちがいることも、僕の作業への励みとなる。


6月17日(土)の記 水菜とイチゴ大福と
ブラジルにて


朝、東洋人街にある宮城県人会館で月2回、開かれる市に行く。
ここで出店している知人に特注したいものがあるのだが、電話が通じないため行ってみることにした。
先方はお年だし、最後にお会いした時にけがをしたとおっしゃっていたので、心配。

ああ、いらした!
お宅の電話が壊れている由。
まずは安心。

この市ではサンパウロ近郊の日系農家が野菜を出品、そのほか日本的食材がもろもろ並ぶ。
今日はいつもより早い時間に行ったのだが、野菜売り場のレジは長蛇の列。

今日は長ネギが見当たらない。
水菜、リーフレタス、イチゴ大福など購入。
ハクサイなどもそそるが、大きすぎてここから後の移動に支障をきたすかも。

ミズナはサンパウロの路上市で面白いポルトガル語名で売られていた。
それが想い出せず、検索してもそれらしいのが見当たらないが…
訳すと「日本ルッコラ」だったかな?

長らく対面していなかった友と合流。
会えば話は尽きない。


6月18日(日)の記 ひめゆり部隊解散命令の日
ブラジルにて


今日はなんの日、と問われれば。
おや、手元にある日本のカレンダーにも「海外移住の日」とある。
115年前に、最初の日本人の集団移民が移民船笠戸丸でブラジル・サントス港に到着した日。
それにともなうウンチクや説法は今日のイベントの主催者の伊藤修師あたりに委ねたい。
http://www.100nen.com.br/ja/okajun/000119/20230514017253.cfm?j=1

僕はオンライントーク。
浅い眠りを経て、こちらの日の出の1時間半以上前からスタンバイ。
大きな事故もなかったようで、なにより。
会場からの声もなかったけれども。
チカラ技の「伊藤節」に圧倒されたかな?

さて、現役ブラジル移民の僕はあえてこの日は「ひめゆり部隊解散命令の日」であることをこころにとめたい。
第2次世界大戦の沖縄決戦時。
当時の沖縄の女子高生からなる看護要員部隊・ひめゆり部隊は米軍の沖縄上陸とともに大日本帝国陸軍の従軍看護を余儀なくされた。
そして日本軍が徹底的に追い詰められた6月18日、突然の解散命令が出されるのである。
状況が絶望的になってから、あとは自己責任で勝手にせい、という次第。
ひめゆり部隊の女子学生の死亡は、この翌日から一週間に全死亡の80パーセントが集中しているという。

天皇の軍隊そして日本国家の面目躍如たるところ。
コロナ5類指定、マイナンバー製作まで通暁するものを覚えざるを得ない。

それを踏まえて僕は海外移住の意義を考えたい。


6月19日(月)の記 チエテ川北岸見舞い
ブラジルにて


午後から、現在は自宅で闘病中の知人のお見舞いに行くことに。
未知のところへの運転ということで、緊張。

住所から調べると、サンパウロ市を東西に貫くチエテ川の北岸だ。
ナビは、調べる時間によってまるで違う道順を提示してくる。
交通渋滞も心配。

チエテ川幹線道路からほど近いのだが、えらい勾配である。
ナビがあってもわかりにくい道順。
狭く、勾配があり、道路に面してほとんど民家の駐車スペースになっていて、こちらが止める場所探しがひと苦労。

ひとつの敷地に親戚数家族が暮らしていると聞いていた。
平地にいくつかの家屋があるのかと思いきや。
傾斜地の立体建築だった。

狭い切通し感のある階段を上ると、踊り場部分にいくつかの居住スペースがうかがえる。
訪ねる病人はさらに階段を上った一角に住まう。
…そこからの眺めは、いい。

トポグラフィとしては、リオデジャネイロのファヴェーラを想い出す。
そして、日本の忍者屋敷。

半世紀以上前、僕の幼少時代の少年雑誌の付録に紙を組んで作る忍者屋敷、みたいなのがあった。
急な階段、ヒミツの部屋…

こういうのに萌える。


6月20日(火)の記 ヌヴェールの女たち
ブラジルにて


インスタグラムでは、こちらの関心のありそうな映像をずらりと並べて提示してくる。
最近、目につくのがカトリックで聖人、福者とされるような人たちの遺体の写真だ。
こうした人の遺体は土葬後、かなりの年月が経ってから掘り起こすと、ほぼ生前の姿をとどめていたというケースが少なくない。
インスタグラムにあがっているのもそうした写真で、ふつうに眠っている人にしか思えない。
今日でも教会などで拝観可能なこうした遺体には、そのままの姿を維持するための加工が施されているようだ。
僕もイタリアでこうした聖人の遺体を目にする機会があった。

さてこんな調子で聖ベルナデッタ(ベルナデット)のことが気になって調べてみた。
1858年のフランス・ルルドでの聖母マリアの出現の目撃者だ。
困窮家庭に育ち、羊飼いをしている14歳の時に洞窟での聖母マリアの出現に出会う。
紆余曲折を経て彼女は修道女となり、ヌヴェールという町で35歳の生涯を閉じる。
その後、彼女にまつわる奇跡が相次ぎ、1933年に時のローマ教皇から聖人(信仰の模範となるにふさわしい信者)とされた。
彼女の遺体の写真も、まるで死人・遺体の印象がない。

さてそんなことがあり、僕はルルドにもヌヴェールにも行ったことはないが、その地名は心に刻まれている。
そしてふと、ヌヴェールというのはあの映画で繰り返し語られた地名ではないか?と気づいた次第。

アラン・レネ監督の『二十四時間の情事』。
原題は『ヒロシマ 私の恋人』で、マルグリット・デュラス著の書籍が日本でも出版されている。
第二次大戦後の広島を訪ねたフランス人の女優と、原爆で家族を失った日本人の男性が行きずりの情事を結ぶ、という話。

その女性の出身地がヌヴェールだったのではないか?
検索すると、ビンゴ。
彼女は第2次大戦中にこのヌヴェールで強烈な体験をしていたのだ。

わがブラジルの蔵書にこの文庫本があった、はず。
発見して、読む。

僕はこの映画を青年時代に見ているが、見た、ということ以外あまり記憶がない。
ブラジルでこの映画のDVDが販売されて再鑑賞、そのあとにこちらの関係者にお貸しして、そのままとなってしまった。
映像作品を見返せないのが残念。

さてこの本では、おそらく映画でも、ヌヴェールと聖ベルナデッタのことはまるで触れられていない。
原爆の広島に対峙するのが、なぜヌヴェールだったのか。

日本語で検索すると、立教大学の研究者による関連しそうな論考があるのがわかったが、オンラインでは閲覧できないようだ。

ウイキペディアによると、アラン・レネは広島を舞台とするドキュメンタリー映画をつくるつもりが、日本に来てから日本人の映画監督による原爆作品を見て、これ以上のものはつくれないと判断してドキュメンタリー映画を断。
その結果として、この不思議な映画がつくられることになったという。

このエピソードを知れただけでも、大きな収穫だ。


6月21日(水)の記 冬至当日
ブラジルにて


日本が夏至だと、サンパウロは冬至。

出先にて、朝から歩く。
快晴。

これまでブラジルで、なにか今日の太陽光線は違うな、と思うとその日が夏至だったり冬至だったりしたことが何度かあった。
すべてに鈍い僕あたりでも感知するぐらいだから、先史時代人はさぞかし。

今日の僕は、特になにかを感じることがなかったけれども。

祖国日本では、冬至以上に夏至について言及されることは少ないようだ。
いっぽう近年のSNSでは、いくらか夏至絡みの記載も増えている感あり。

さあこっちはこれから日が長くなる一方か。
一陽来復。
なんだかうれしい。


6月22日(木)の記 セルフドキュメンタリーの果てまでも
ブラジルにて


セルフドキュメンタリーと呼ばれる、いわばジャンルがある。

作家、監督が自らカメラを回しながら自分の身辺や家族などのことを記録したもの、といったところだろうか。
今日、見たのも一見それというか、それに端を発したものといえそうだが…

午後から出家、気になっていた作品の鑑賞に挑む。
ブラジル日系人の日本へのデカセギがテーマだ。
ブラジルに残された息子の視点で描く、というもの。

この息子が映画を学んで大学院まですすみ、彼の撮ってきたものにいろいろな筋が乗っかってきた、ようだ。

セルフドキュメンタリーの家族ものは、家族の関係だから撮れるもの、というのがいわばウリだ。

この映画では、途中から息子:監督が家族と語りながら撮影しているところに、別のビデオカメラやガンマイクとブーム(マイクを支える竿)が映り込んでくる。
家族の日常を家族が撮影しているという設定のなかに、他のプロフェッショナルな撮影録音技術者たちが入り込んでいるわけだ。
すでに家族内の日常からはみ出した「非日常」的な演劇空間での撮影といえるかもしれない。

個人が、これを記録しておきたいという思いから撮影をする。
それに目を付けた人や組織が、それぞれの思惑で、映画祭狙い・賞狙い・興行狙いに拡大していく。

その結果が、これである。

この家族は、商売・仕事をしてカネを稼ぐ、家族のために、に終始している観がある。
そのことが、息苦しい。

ヒトはいかに生きるか?

存在理由が交尾相手と子供のために尽くすことにとどまる、という記録なら「いきもの万歳」みたいなヒト以外の生物のものでも見ていたい。

ヒトのふり見て、わがふり直さねば。


6月23日(金)の記 友情の代償
ブラジルにて


大サンパウロ圏のスケールでみれば近所住まいの友人と、午後から会う。
共通の友人の問題での情報交換。
お互いのジグゾーパズルのピースを組んでいく。

別件もあって盛り上がる。

…夕食の支度には間に合った。
こんなこともあろうかと、コメは研いでおいた。


6月24日(土)の記 土俗をのぞく
ブラジルにて


パンデミック明けというのが拍車をかけたのだろうか。
サンパウロでは映画関連だけでも、気になる、ではすまないイベントが目白押しである。

ブラジル銀行文化センターでのGERALDO SARNO特集。
https://ccbb.com.br/sao-paulo/programacao/retrospectiva-geraldo-sarno/
日本でブラジル映画を研究する友人からもうらやましがられる回顧特集だ。
一期一会観あり。

午後、行ってみる。
同じセンターでのアート展の方は入場に長蛇の列。
それをかいくぐって。

ブラジル北東部の、カンドンブレと呼ばれるアフロ系の宗教の儀礼を記録した2本を鑑賞。
僕あたりには懐かしい、地味でオーソドックスな民俗誌フィルムだった。

僕の原点である日本のテレビドキュメンタリー『すばらしい世界旅行』を想い出す。
が、『すばらしい世界旅行』ではこの作品もネタも地味すぎて放送以前に企画が通りがたかったろう。

実にむずかしい番組を手掛けていた、とわれながら冷や汗が出る思い。

それにしても、こうしたムービーが存在すること、そしていま見ることのできる喜び。

数百年前にアフリカからこの大陸に連れてこられた人たちが、故郷での宗教儀礼を「今日」まで伝えてきた。
日本の隠れキリシタンと比較して少し考えてみたい。


6月25日(日)の記 TERRUÁ PARÁ
ブラジルにて


今日も午後から、性懲りもなく映画を見に行く。
IN-EDIT BRSILという音楽ドキュメンタリー映画祭。

ようやく紙のプログラムをゲットできたと思ったら、今日が最終日だった。
なんだか気になったこれを見る。
『TERRUÁ PARÁ』。
https://www.cinemateca.org.br/exibicao/terrua-para/?fbclid=IwAR1zVNT03RSSGVrMXeaBcrmtTxiWvm6HG1VpS_XyeH47XD6IYcL9R9m0D60

アマゾン下流域のパラー州のさまざまなミュージシャンを紹介する。
森のなかから、川べりから、廃墟から、英語字幕では Ghettoと訳されるような都市周辺部から音楽らしきものが聞こえてきて、歌い手・奏で手が登場する。

ぞくぞく・うっとりする面白さだ。
よくぞこれだけユニークなのが…
映画のなかで、パラー州の音楽の特徴・独自性もわかりやすく説明される。

ああ、まさしく音痴な僕でも、こんな音楽ビデオがつくりたくなるではないか。

続いてみようと思った作品は満席札止め。
パラーの音楽と映像の余韻に浸りながら帰るとするか。


6月26日(月)の記 Lei Maria da Penha
ブラジルにて


サンパウロは冬至は過ぎたが、まだまだ日の短い時期が続く。
この時分の日毎のグラフィティ撮りは、そこそこタイヘンだ。
できれば明るい、日の当たった条件で撮りたい。

午後、セントロ:中心街に出る。
16時過ぎで、はや高層ビル街はほとんど暗い日陰に沈んでいる。
セントロに多いステッカー類はモノが小さくもあり、明るくないと写真としてぱっとしない。
うーむ。

お。
女性の顔と後ろ髪の並ぶ大判のグラフィティ群の一部に西日が当たっている。
近くに寄ってみる。
スマホのファインダーでのぞくと、こっちの陰が入ってしまう。
これもかえって面白いかも。
https://www.instagram.com/p/Ct-IOglP78E/

このグラフィティ群の一部は、すでに日中にスマホ撮りしてインスタグラムにあげたことがあるのだが…
そもそも、これはいったい誰が、どんな女性たちの肖像と後ろ姿を、どんな意図で描いたものだろう?

安全な場所に移動後に、写り込んだ文字をキーワードに検索してみる。
Lei Maria da Penha。
マリア・ダ・ペーニャという女性の権利問題の活動家の名を冠した法律の10周年を記念して描かれたものと知る。
この女性は自ら夫のDVに苦しめられて活動を始めて、ついに女性への家庭内暴力を罰する国の法律を制定させるに至った。

恥ずかしながら、こうしたことをグラフィティに教えてもらった。
すでに3年以上にわたって、ブラジルで日毎に出会うグラフィティにまさしく森羅万象について学んできた。

振り返るとこうして今日の社会問題について教えてもらうことも少なくない。

いずれ訪日となると、これも中断だな。


6月27日(火)の記 ちょっと大学へ
ブラジルにて


今日も午後からお泊りの食事番となった。

先方に行く前に、近くのサンパウロ大学学園都市に立ち寄ることにした。
クルマをとめて、グラフィティ探しとウオーキング。

最初は僕もニホンジン感覚で「みだりに」自分が所属していない大学構内に入るのはビビりがあったものだ。
ところどころに警備員もいて、こちらのグラフィティ採集というのも十分に不審だが、なるべく「どうどうと」振る舞うことにしている。

訪日時に東京の実家を拠点として、宅配便を受取りボックス指定というのができるのを知った。
場所を調べると、最寄りの場所は女子大内だった。
そこを指定したものの、キャンバス入り口で立ち入りを拒まれ、往生したことがある。

それにしても、なかなかこれといったグラフィティにお目にかかれない・・・
こういう時は、キャンバス内のバス停をあさることにしている。

ようやくこんな小さなステッカーを発見。
https://www.instagram.com/p/CuAssljPSee/


6月28日(水)の記
ブラジルにて


中世の泰西名画のモチーフは、ほとんどが聖書起源のもの。
特にカトリック教会にある絵画や塑像は、イエスと聖母マリア、および聖人たちが大半。
聖母マリアだけでも「嘆きのマリア」「ルルドの聖母」等々、さまざまな種類がある。
これはどんな聖母か、これは「なに聖人」かがわかれば、さらに理解と親しみがわくというもの。

今日は出先でグラフィティ探しと外メシ願望を満たすため、少し歩く。
おや、カトリック教会らしき建物が視界に入った。
行ってみる。

開放されているが、内部を改装中のようだ。
祭壇がちょっと変わっている。
正面と左右の壁に、まさしく壁画が描かれている。

左右は聖人らしき男性像。
左側は…
https://www.instagram.com/p/CuCyCfZO7Dj/
手に鍵を持ち、逆さの十字架を支えている。
これなら「キーワード」から僕にもわかる。
聖ペドロだろう。
ポルトガル語ならペドロ、英語ならピーター。
その他、ペテロ、ペトロなど。
キリスト教なんかカンケーない、キライ、とおっしゃる日本人の方でも、ほとんどの方がこうした名前のガイジンをひとりふたりは想い出すことだろう。
日本人にもいる・いたし。
日本製の怪獣にも。

帰宅後に検索してみると、明日6月29日が聖ペドロの祭日だった。
ペドロは逆さの十字架にはりつけにされて殺された。
ああ、教会によっては今日28日に聖ペドロの前晩のミサというのをたてていると知った。

こういう「偶然」がしばしばあるのが妙。

特にこの壁画が飾り立ててあったわけでも、僕が聖ペドロの祭日を意識していたわけでもないのだ。


6月29日(木)の記 君は『ラ・ジュテ』を見たか
ブラジルにて


ブラジルシネマテッカで「クリス・マルケル+ブレッソン特集」がはじまった。
クリス・マルケルか。
わが古巣の日本映像記録センター(NAV)の姉妹組織・日本映像カルチャーセンターではクリス・マルケル特集上映をしていたと記憶する。
来日した本人に会っていたかどうか、はっきり覚えていない。

彼の伝説の『ラ・ジュテ』も、見た、ということぐらいしか覚えていない。
映画のストーリーを日本語で検索して読むが、ほとんど記憶していない。
当時は生きているのがやっと、という状態で、NAVのオフィスで深夜にこっそりビデオか16ミリで見ようとして、うつらうつらしていたのかもしれない。

行ってみるか。
おお、白黒のスチール構成か。
どうやらこれは、まるで見ていないぞ。
念のためストーリーを日本語で再読しておいたが、それでも難解だ。

1980年代。
当時の若い映像カンケー者は、ラジュテだクリスマルケルだと言っていればオシャレのつもりでいれたのではと反省。
当時の同僚と、新宿ゴールデン街の「ラ・ジュテ」には行った覚えがある。

そもそもラ・ジュテとは何を意味するのか、それも考えた事がなかった。
ウイキによると、空港のボーディング・ブリッジのこととか。

ブラジルでのタイトルも同じかと思っていたが『A Pista』だった。
これは足跡や滑走路を意味する単語だ。
映画の舞台が空港だから、ブラジルでは足跡の意味も含ませて滑走路:ピスタとしたのかもしれない。

こんな手法で映画ができる、というのが驚きで、かつうれしいではないか。


6月30日(金)の記 「死者はいつまでも若い」
ブラジルにて


今日は21時上映開始!でシネマテッカでのクリス・マルケルの『レベル5』の上映がある。
沖縄がテーマのひとつになっているらしい西暦1997年の作品。
日本での公開当時に気にはなっていたが、見る機会はなかった。

終映は23時近くになろう。
昼もさることながら、夜のサンパウロはかなりヤバい。
シネマテッカのあたりは繁華街から離れていて暗いところも多く、賊にとっては格好の「猟場」かも。
かつて僕がレストランの車番に預けておいたマイカーを盗まれた場所からもほど近い。
危険度も、レベル5といったところか。

…それなりの覚悟をして、出家。
行きも帰りもメトロと徒歩の組み合わせの方針。

さて、映画の方。
フランス人の女性が第二次大戦中の沖縄戦をビデオゲームにしようとして、データを調べ始める。
彼女は住民を巻き込んだ沖縄戦の事態を、ナチスの強制収容所に次ぐ問題ととらえる。
そして「オキナワ、わが愛」と語る。

VTRから取り込んだらしい大島渚監督のインタビューが挿入される。
大島監督の脳出血発病は1996年。
その前のものだろう。

そして、フィルム映像の、おそらく学童疎開船対馬丸の遭難事故関連シーンがが長く挿入される。
おそらく、これは「死者はいつまでも若い」――
牛山純一プロデュース作品・大島渚監督のテレビ番組「死者はいつまでも若い 沖縄学童疎開船の悲劇」ではないだろうか。
これは『ドキュメント 人生の劇場』の一作として1977年に放送されている。

1944年8月、沖縄の学童たちを本土に疎開させることになった対馬丸はアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、1500人近い死者を出すことになった。
日本側は事件を極秘扱いにする。
その関係者の証言や慰霊行事などを紹介するドキュメンタリーだ。

僕が牛山代表の日本映像記録センターのスタッフだった時代にお世話になった朝田健治カメラマンが、この取材に関わっていた。
「死者はいつまでも若い」というタイトルの案はオレが出したんだ、と本人から僕は聞いている。

「死者はいつまでも若い」の語を検索すると、ドイツのアンナ・ゼーガースの小説の邦題(1953年)がヒットする。
この短いフレーズ程度の一致では、著作権侵害には当たらないのだろう。

さて『レベル5』。
エンディングクレジットに牛山純一の名前と、大島監督の名前と使用作品名らしいものがフランス語でフラッシュバック程度の数秒、提示された。
牛山純一の没年は1997年、この映画の製作年の翌年だ。
牛山はマルケル監督の沖縄取材に協力を惜しまなかったことだろう。

余談ながら1997年9月の牛山さんの葬儀の際、奇しくも訪日していた僕は告別式に列席した。
大島渚監督が車椅子で出席して、それ狙いのテレビワイドショー取材班が来ていたのを想い出す。

さて「死者はいつまでも若い」「大島渚」で検索してみる。
なんとトップでヒットするのは中国語のウエブサイトだった。

そして「死者はいつまでも若い」「対馬丸」「大島渚」で検索すると、ヒットなしとは。
番組名に「対馬丸」が入っていなかったせいか。
それにしても。

大島渚監督作品であろうと、テレビ番組だとこの程度の扱いか。
「忘れられた皇軍」は例外のようだ。

大島さんには牛山純一プロデュースの『知られざる世界』「生きている日本海大海戦」(1975年放送)というドキュメンタリーもあり、これには20代の僕は相当な衝撃を受けた。

ウイキの「大島渚」を見てみると、テレビ作品のなかには「死者はいつまでも若い」も「生きている日本海大海戦」も記載がない。

「日本人よ、これでいいのだろうか?」
(「忘れられた皇軍」番組最後のナレーション。)

ちなみに岡村は無事に深夜のわが家に帰還。






 


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岡村淳 :  
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