コンピュータ学校経営: 高橋 正敏さん (2003/04/11)
| 氏名 | 高橋 正敏 | 住所 | サンパウロ州 サンパウロ市 | 職業 | コンピュータ学校経営 | 生年月日 | 1952年 5月 | 出身地 | 東京都 | 渡伯年月日 | 1976年 6月 工業移住で渡伯 |
2001年1月
※高橋先生こんにちは。今日は21世紀最初のインタービューということでよろしくおねがいします。
ああ、どうも、その先生というのはやめましょう。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」というほどの利口でもないし、「先生と呼ばせぬほどの野暮でなし」というほどの粋というわけでもないのですが、どうもその先生というのは未だになじめないのです。もう20年位はいろいろな先生をやっているのですけどね。
※そうですか。では月並みな質問からですが、高橋さんはなぜブラジルに来られたのですか?
来られたというほどの事もないのですが、はじめに来たのは1976年の6月で僕が24才の時でした。20才の時に友人と2人でヒッチハイクで日本中を2ヶ月かけて回りまして、日本は広いなと思いましたね。そのときに親に相談せずかってに大学を辞めて、一番気に入った山口県の萩市に移住しちゃいました。もともと大学(哲学科)なんて卒業する気はなかったし、哲学なんていうのは人生の上で極めるものだと思っていましたから。それで萩に3ヶ月位いてその後広島市に1年ちょっといて、同棲生活に疲れて東京に戻り、ブラジルに移住して来ました。別にブラジルじゃなくてもよかったのです。とにかく外国ならどこでもよかったのですが、当時移住できたのがブラジルやアルゼンチン、パラグアイ、それにカナダ。カナダは寒いから嫌だなと思って、「イパネマの娘」に逢いたくてブラジルへ来ました。
※哲学科がまたなんで工業移住だったんですか?
僕は東京の江東区に住んでいたんです。秋葉原に近かったので、子供の頃から秋葉原を歩いていまして、壊れたラジオなんかを買ってきてそれを修理して売ったりしていました。それでラジオの修理なんか昔からできたんです。だから自分にとっては電気も哲学も同じなんです。 旅行ではなく、外国で生活をしてみたかったのです。昔から旅にあこがれていました。旅行というのははじめから帰ることを決めてから出発するのですが、旅というのは帰らない事を想定して出発すると思っていました。当時の映画で「8月の濡れた砂」というのがあってそのラストシーンで旅立つ主人公に向かって「後悔するなよ」とある人が言って、その主人公が「後悔したいんだよ」と答えるカットがあったのですが、まさにそういった感じで日本を出て来ました。
※それで旅をされたわけですか。
そんなにかっこいいものじゃなくて外人の女とお友だちになりたかったというのがもうひとつの理由で、ブラジルへ来てある紡績工場の電気保全員という地味な仕事を一年ちょっとやりました。24才の時です。そのときにそこから15キロくらい離れた所に遊郭みたいなものがあったので、ほとんど毎日通ってポルトガル語を勉強しました。だから僕のポルトゲース(ポルトガル語)はポルノゲースとかヨルトゲースとかいわれました。その後サントスという港町へ移って昼はサーフィン、夜は女郎屋通いをしていました。自分でいうのも変ですが、とにかくもてましたね。相手は商売なのですが、こっちは金がないので、女の子におごってもらったり、ちょっとしたヒモ気分でやっていました。サーフィンはほとんど出来ませんでしたが、車にサーフボードを積んで走るのがかっこよかったので、いつも積んでいました。所謂ミーハーというやつですね。
※失礼ですが性病は大丈夫でしたか?
今と違ってエイズはまだなかった時代ですからこうやってまだ生きていますが、抗生物質をいつも飲んでいました。でも毛じらみはもらいました。これはショックでしたね。24年も前のことですけど今でもはっきりと覚えています。恥ずかしくてだれにも相談できなくて、あそこを剃りましたよ。それでもかなりしつこくて2ヶ月位毛のない生活をしていました。我ながら毛のない息子というのは結構かわいいものですね。でも毛の生えはじめはチクチクして痛痒くて地獄でした。物の本で読んでお線香の火で毛先を焼くといいというので、やりましたけど、情けない姿でしたね。インターネットでこんなことを発表しちゃっていいのかね。
※今は結婚してまじめになったわけですか?
これは、実は世をしのぶ仮の姿なのですが、いごごちがよくて20年もやっています。子供が3人と女房が一人いるのですが、子供が成人したら子離れしようと考えています。女房離れは今のところわかりませんが、子供には20才になったらパパみたいに家を出て行きなさいと常々いっています。「かわいい子には旅をさせろ」とはよく言ったもので、僕なんかは未だに旅をしています。
※将来の夢は?
新宿西口の中央公園で路上生活者になることです。これはかなり難しいと思いますが、いつかやってみたいですね。昔、林光一という早稲田大学卒のルンペンが上野にいまして、その人の本を2冊読んで、すごくルンペンに憧れました。ブラジルでルンペンをやってもしゃれになりませんが日本での路上生活というのは憧れますね。 2000年の暮れに新宿、池袋、上野、浅草、そして定番の山谷へ下見をしてきました。でも冬は寒くて僕には生活が出来そうに無いというのが感想ですね。ですから冬と夏は南半球のブラジルとかオーストラリアとかにいて春と秋に日本でルンペンというのが最高のパターンですね。ノートブックのパソコンと携帯電話さえあれば、世界中どこにいても生活できそうな時代になってきましたから。 やはり人生は基本的に「旅」だと思っていますから、旅を続けたいなと思っています。今も別に停まっているわけじゃなくて心の中では旅をしていて、知らない街角の路地に入っただけで自分は旅しているんだな、っていう気持ちになります。だからちゃんと生活していても心は旅をしている感じです。それの延長上でもうちょっとふらふらしたいなという気持ちが常にあります。不良中年みたいな感じでね。ははは。
※どうしてそういう生活に憧れるんですか? 浅川マキっていう歌手を知っていますか? 彼女の港町ブルースじゃないけど、港町だとかジゴロだとかに非常に憧れるんです。それは魂的にDNAに入っているんだと思います。僕の前世がヤクザだったいうのがあるんだけど、そのせいかやっぱり「仁義なき戦い」や「東京流れ者」なんていうのに憧れます。
※親族にそいう方がいたんですか? いやいやいわゆる小市民的な幸せな家庭に育ちました。日本にいるとそういう暖かすぎるのが嫌なんですね。自立できないというか。 ※現在はどういうお仕事をされているのですか?
今は、コンピューターの修理だとか、販売、ここではコンピューターの学校を5年くらいやっています。辞めたいんだけど、辞めちゃうと日本語のコンピューターをいじる人がいなくなっちゃうんで続けています。でも、もうそろそろ疲れてきてコンピューターは辞めて肉体労働なんかしたいなと思っています。 ※日本はどう思いますか? 日本というのはどんどん薄っぺらになっていると思いますね。特に食事なんかにしても画一的で、味がなんか物足りないですね。それはすべてに関していえますね。だからたまに行って故郷気分を味わうのが一番いいんじゃないでしょうか。
※日本の若者に対してなにか提案なんかみたいなものがりますか?
自分で勝手に生きればいいっていうのがやっぱり基本ですよね。人の生活に対してとやかくいえるような立場じゃないし、自分の生活だってまともにできていないから、ああしろ、こうしろっていえないけど、ただ世代に押し流されるんじゃなくて自分で時代を作っていくみたいな形で生きて欲しいなというのがあります。
※コロニアに対してどうですか?
滅びていくだけだから、骨を拾ってあげたいな、というのがあります。だから移民100年祭というのが後7年くらいであるんですが、そのときはインターネットでバーチャルにやりたいなと思っています。移民が生きた証、足跡みたいなものを残してあげたいな、インターネットで発表できたらいいな、と考えています。
※最後にブラジル女性はいかがですか? あきますね。肉体的な部分は最高の物を持っていますが、やっぱり、年とってくるとセックスは、もっと内面的な心のふれあいみたいな物だと思うんです。はちきれそうな身体で迫られても、なんか物足りないなというのがあります。最近は精神的なものがいいなと思います。そういう意味では日本女性がいいと思います。それは言葉が通じる通じないじゃなくてもっと情緒的な部分で、言わない部分を日本の女性はわかっていますよね。そういうのに憧れます。
※奥さんは日系の方ですよね。
そうですね。うちの女房は明治の日本女性という感じで、非常に満足しています。 もちろんブラジルで生まれて育っていますから半分はブラジル的な部分も持っています。だからある部分では毎日毎日が文化と文化の戦いですよね。もう20年になりますが、未だにそんな部分もあります。
※ありがとうございました。
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