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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年7月号

2011年7月号 (2011/07/17) 小野寺先生を悼みて

サンパウロ中央老壮会 村松敞子
 小野寺先生の訃報を電話で知った時、あまりにも突然だったので言葉も出ないほどでした。
 一昨日の老ク連の教室では新しい曲の楽譜を三曲持って来られて、「二回の授業で皆に覚えてもらってその後すぐにCDに録音しましょう」と言われ、張り切っておられましたのに…。
 私は一九七〇年代に父母と共に日語塾を開いておりました。父が「生徒も集まったので小野寺先生をお招きして音楽を教えて頂こう」と言い出しました。私は有名な小野寺先生が本当に来てくださるかしら? と思いましたが、先生は快諾され、週に一回来られるようになりました。
 生徒は三歳位から中学生までいましたので、教えるのも大変でした。幼児は字や楽譜は分かりませんのでお遊戯(ゆうぎ)を入れて先生自身も踊って見せて教えてくれました。
 子供さんもおられないのに子供の気持も分かって、よく教えられるなぁと感心していました。常におだやかで生徒を叱ったりするのを見たことがありませんでした。
 お陰様で十五年ほどの間に毎年、園内の文化祭を行って、合唱を発表し、コロニア合唱祭にも参加できました。一番の思い出は移民八十年祭に参加できたことです。夜間にはあまり近くない学園まで来て頂き、父兄にもコーラスやカラオケを教えて頂きました。
 事情があって、一九八九年に閉園しましたが、その後、私の主人がタクシー業をしていた時はよくお客になったりもして頂きました。
 昨年より老ク連のコーラス教室で指導さることになり、再び、先生に会えて嬉しく思い、部員の皆さんと共に練習に励んでいた所でした。
 小野寺先生は活動の幅が広く、私が存じ上げない所でも多々活躍されていたようです。日系コロニアの偉大な音楽指導者を失ったことは、本当に残念なことだと思います。
 コーラス教室の二人の指導者が相次いで亡くなられたという事は各々がそれぞれ個人の力を磨いていくように悟しているようにも感じられます。良きリーダーや部員と共に今後も歩み続けて行こうと思います。
 小野寺先生のご冥福をお祈り致します。


前会長 矢野恵美子さん

セントロ桜会 森川玲子
 セントロ桜会の会長を長年務めてこられ、今年九十一歳になる矢野さん。ご本人の強い希望で会長を退任されました。矢野さんが辞められたら「桜会」も消滅。終身会長と皆さん考えておりました。ですが、折角長い間矢野さんが育んでこられた会をなくすのも残念な事。結局、一番若輩の私に会長役が廻ってきました。
 去る四月の例会では、趣を変え豪華な仕出し弁当でささやかな感謝の会を催しました。
 矢野さんが務められた十四年という歳月は赤ちゃんが生まれ、少年へと育つほどの長い年月です。今、九十一歳で少しだけ歩くのが覚束ないようですが、二、三年前まではスイスイと歩いておられました。また、ブラジル語を混ぜることなく綺麗な日本語で話されます。
 十代で家族と共に北海道より移住。一家の働き手として畑仕事も。夜、妹さんたちの教科書を借りて独学。ブラジル語も大変お上手だそうです。
 「セントロ桜会」は会員数三十八名。小さな会ですが老ク連会長の五十嵐さん、理事の田村さん、松平さんとそうそうたるメンバーがいます。
 また川柳、短歌、俳句と文芸面にも活躍。矢野さんも川柳、俳句のベテラン作者です。老壮の友俳句会では選に入りますと「ハイ、恵美子」と嬉しそうに返事をされます。これからもたくさん良い句を詠んで頂きたいと思います。
 毎月、第三土曜日の十二時より老ク連の場所を借りて例会。それぞれ持ち寄りのご馳走で、自慢料理も並びます。食後はカラオケで上手な人ばかり。鈴木政子さんのおはこは「愛染かつら」「花も嵐も踏み越えて~」です。男性ばかりでなく、この国に移住してきた皆さんが歩んでこられた道は大変なものだったと思います。そんな思いで皆さんしみじみと聴き入ります。
 あとはお待ちかねのビンゴ。たかがビンゴ、されどビンゴ。安い品物の商品ですが、皆さん一喜一憂。三時前にお開きになります。
 矢野さんは会員がたくさん集まった時は喜ばれ、ビンゴの商品に心を配ってこられました。会長は辞められましたが、会員一同のお姉さんのように親しまれています。どうかいつまでもご壮健で。昔はカラオケもお好きだったとか。これからもカラオケ、俳句にと楽しんで頂きたいと思います。


生と死の現実を見つめる(2)

ブラジリア壮快クラブ 田中淳雄
 島田会長に「貴君はブラジルで人助けをしなさい。この枇杷療法を広めなさい」と言われたことが、その後の自分の人生を変えることになる。
 たくさんの地域とのかかわりが出来て、十五年間、ブラジル全域に少しずつ広めたことが自分の人生の唯一の良き経験となる。
 今までに枇杷温圧療法の講演とクルソ勉強会で医者が六十名、全部で九百名近くの人が資格を取った。今も年に二回のクルソをしている。
 一昨年末から排便の時に血が混じり尿の出もよくなく、検査をすると大腸ガン二期末と診断された。まだ初期なので治療すれば助かるかも知れない。医者から「貴君は元気があるから手術の前に化学療法をした方が良い」と言われ、一か月間、化学療法をした。その結果、出血は止まり、副作用もなく二か月後に手術をした。
 三日目に顔が腫れる。目も見えず、胃に水が溜まり、呼吸が苦しく妻に「死ぬかもしれないから早く病院に来い!」と命じ、自分の中で(これは何かの誤ちか! 手術の失敗か!自分が恐れていたこと、死が近づいている)と絶望的に暗い気持ちになった。
 しかしこの時、死から逃げす、生と死は背中合わせ。いつその時が来ても自分には覚悟が出来ている、と言い聞かせた……が不安で一杯。
 二日後、気が付いたら顔の腫れは無く、大腸の癒着もよくなって一命を取り留めた。そして、ガン細胞を検査した所、「細胞が死んでいるから化学療法はしなくてよい。百人に一人」とも言われた。まだまだ生きて沢山の人たちに本当の幸を知って頂く使命があると自分に言い聞かせた。
 十一日間の入院生活、この間手にした本が高森顕徹先生の「なぜ生きる」で、一回目は夢中で読破。二回目には人間に生まれることの素晴らしさ、人生の目的は何か、苦しみの絶えない人生の海を明るく渡す大船に乗り、未来永遠の幸福に生きることが出来ると知った。
 目的を達成した時、一切の苦労は報われ流した涙の一滴一滴が真珠の玉となって戻ってくると教えられている。
 いつ死が来ても現実をしっかりと見つめること。浄土真宗、親鸞の教えは因果の道理に則り、現在あることは過去の行いの内に、未来は今の行いの内にと教えている。人間の業、名誉、地位、財産、お金も死んでいく時は何も持って行けない。仏教は生きている時に本当の幸を得ることが出来るという教えである。この本「なぜ生きる」は親鸞聖人の教えをもとに分かり易く書かれている。自分は人生の指針として死ぬまで持っていたいと思う。(終)


脱帽

レジストロ春秋会 大岩和男
 昨年十二月二十一日に孫のエンリッケが高等科を卒業するので、その卒業式に参列した。
 場所はリベイーラ河沿いのKKKKや資料館と並ぶ常設館で挙行された。大勢の父兄、参観者だった。定刻より少し遅れたようだが式は順調に進められ、大勢の先生方が着席、卒業生全員も入場し、校長先生の挨拶の後、国歌「イーノナショナル」の音楽が奏でられ、全員起立で斉唱が始まった。この時、私たちの前の席に座っていた十二、三歳と十歳くらいの男の子二人が白と赤のボネー(野球帽)を被っているのが目に付いた。国歌斉唱の時に不敬な、と思ってすぐ目の前の白帽子の大きな子に「帽子を取れ」と注意をした。その子も隣の赤ボネーの子も素直にボネーを取った。
 よく聞き入れてくれたと感心したのと、国歌に対する敬意を払うことが出来て気持ちが良かった。国歌斉唱も終わり、二、三の先生方のお話があって全員着席した。その途端に先刻の二人の男の子たちはボネーを頭に乗せたのである。確かに国歌には敬意を払ったのだが、この卒業式の厳粛な会場でボネーを再び被る。どうも常識外れ(日本人的に見て)である。もう一度注意をしたが、今度は素直には聞かず、白帽の大きい方の子は席を左側に移って終わるまで取らなかった。小さい赤帽も同じだった。
 こういう子供を育てた親たち、また、学校教育はどうなっているのだろうか? と思わせられた。たしかに国歌斉唱中は敬意を表したが、この式典会場における点ではあまり気持ちが良くなかった。が、それ以上は言わなかったし、それは教育問題として学校がすべき事と思ったからである。
 昔、私の少年時代にオンダベルデ青年連盟主催の青年陸上大会が毎年何年か続けられていた。ある年の大会を参観に行った私はその入場式の見事さに見とれて帽子(ボネー)を取るのを忘れて見入っていたのである。ちょうど日伯国旗が掲揚され、国歌が吹奏され始まった時で各青年団代表選手たちが整然と並んだその白服姿に魅せられ呆然としていた。その時、不意に後から「こらっ!帽子を取れ」と怒鳴られ、気付いてボネー(その頃は運動帽といった)を慌てて取ったことがある。
 怒鳴ったのは日本語の先生であった。その先生の声は未だに耳朶の奥に残っている。
 その頃は学校ではもちろん、家庭でもよその家でも、色々な会場で、特に国旗国歌の掲揚時には絶対、脱帽するのが礼儀であると教えられていた。それが入場式のあまりの見事さに見惚れてつい帽子を取るのを忘れていたのである。それ以来、あの先生の一喝が身に沁み、他家を訪問した時はもちろん、どんな所でも家または会場に入るときは脱帽を忘れないようにしている。それが礼儀というものであるからだ。


シネマ放談(3)

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
スパイ映画の元祖
 「007は殺しの番号」が世に出たのは一九六二年だから、もうおよそ半世紀も昔になる。原作はイアン・フレミングで、英国秘密情報部員の上級公務員で殺しの許可証を持つジェームズ・ボンドが国際的なスケールでするスパイ活劇ものだ。それまで無名に近かった男優ショーン・コネリーは、この映画で一躍世界中の注目を浴び、シリーズ五作を通して大スターの座を獲得した。
 第一作はロケットの軌道を狂わせるノオ博士(ジョゼフ・ワイズマン)の計画を阻止するため、ジャマイカに飛んだボンド(ショーン・コネリー)。協力するハニーに扮するボンドガールはウルスラ・アンドレス。
 次作「危機一発」(一九六三年)はシリーズ全巻の中でも最高の出来と世評の高い一篇。ボンドガールはソ連の情報部員のダニエラ・ビアンキで、敵の計画は英ソの情報部を敵対させ、ボンドを抹殺しさらにソ連情報部のレクター番号解読器を盗む、というものでオリエント急行内でのボンドと殺し屋ブラント(ロバート・ショウ)の対決シーンは迫力満点。マット・モンローの歌う主題歌も大ヒットした。
 第三作は「ゴールドフィンガー」(六四年)で世界の金の相場を操作するゴールドフィンガー(ゲルト・フレーベ)の野望をボンドが阻止しようとする。不死身の空手の男(ハロルド坂田)との死闘が見せ場。
 四番目の「サンダーボール作戦」(六五年)では原爆を搭載したNATOの爆撃機を強奪し、一億ドルを支払わねばアメリカの町に原爆を投下するとの脅迫。海中撮影が目を楽しませてくれ、使われる秘密兵器も次から次へと盛り沢山である。ボンドガールはクローディーヌ・オージェ。
 日本ロケを敢行した五作目が「007は二度死ぬ」(六七年)で、地球の軌道を巡行中の米ソのスペース・カプセルをハイジャックし、第三次世界大戦を引き起そうという物騒な企み。日本側からは丹波哲郎が共演し、ボンドガールに浜美枝と若林映子。ボンドが日本人漁師に変装するのは御愛嬌。
 ここでショーン・コネリーは主役をおりて、第六作「女王陛下の007」(六九年)ではジョージ・レーゼンビーが抜擢されている。スイスのアルプスが舞台でボンドとトレイシー(ダイアナ・レグ)の結婚、雪山頂上のプロフェルド(テリー・サヴァラス)の基地、スキーチェイスのシーンが見もの。
 次回作の「ダイヤモンドは永遠に」(七一年)にはショーンがカムバック。人工衛星からダイヤを通して生じる強烈なレーザー光線を放射して地上を攻撃しようとする野望に立ち向かう。ティファニー(ジル・セント・ジョン)が協力。
 次の「死ぬのは奴らだ」(七三年)から三代目ボンドのロジャー・ムーアが登場する。神秘的な美女ソリティア(ジェーン・シーモア)が色を添える。
 以後「黄金銃を持つ男」(七四年)「私を愛したスパイ」(七七年)「ムーンレイカー」(七九年)「ユア・アイズ・オンリー」(八一年)「オクトパシー」(八三年)「美しき獲物たち」(八五年)と一四作までムーアが続投。しかし、ストーリーは全く原作をはなれ、マンガ的に飛躍、現実味に乏しくなり、しまりのない作品が並んでしまった。
 一五作目の「リビング・デイライツ」(八七年)では四代目のテイモシー・ダルトンが起用され、アクションの原点に戻った作となっている。西側に亡命したコスコフ将軍の真の目的はKGB長官抹殺と死の商人(ドン・ベイカー)との麻薬とダイヤの取引き。ボンドは女狙撃手(マリアム・ダボ)を味方に対抗する。次は「消されたライセンス」(八九年)。CIAの旧友が結婚式で襲われ瀕死の重傷を負う。上司に反対され殺しのライセンスを剥奪されたボンド(ダルトン)は、麻薬王(ロバート・ダヴィ)相手に旧友の敵をうつ。
 なお、このほかパロディ風に作られた異色作「カジノ・ロワイヤル」(六五年)もある。ボンドにはデヴィッド・ニーヴンら六人が扮し、国際組織スメルシュに闘いを挑む姿を馬鹿馬鹿しくゴージャスに描いている。
 最後にもう一篇。「ネバーセイ・ネバーアゲイン」(八三年)は「サンダーボール作戦」のリメイク版。ショーンが復帰したが、やはり年齢には勝てず、惨めな結果に終わったようだ。


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