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マツモトコージ苑
     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/05/01)
中田正男さん [画像を表示]

中田正男さん (2024/03/11)
2016年3月号中田正男さん.jpg
中田さん(左)と千恵子夫人
 パラー州サンタレン市近郊の農場に住む中田正男(なかだ・まさお)さん(68、北海道出身)は、パラグアイ移民として少年時代に南米に渡り、同地に転住してきた異色の体験を持つ。陽に焼けた逞(たくま)しい身体が、農業生産者であることを物語っている。
 中田さん家族はオランダ船の「チチャレンカ号」で海を渡り、1957年6月にサントス港に到着した。汽車を乗り継いでブラジルを越え、パラグアイ・アマンバイ植民地のジョンソン耕地に第2次移民として入植。3年契約のカフェ農園でコロノ(契約農)生活を送った。
 当時、正男さんは9歳。おぼろげな記憶の中でも、同耕地のパラグアイ人が、「自分たちの仕事が日本移民に取られる」との思いから、日本人に対して好感を持っていなかったことを覚えている。
 同耕地では、カフェの本作以外の余った土地に大豆、トウモロコシ、トマトなどを植えたが、3年の契約終了後の60年、中田さん家族はブラジルに転住することを決めた。
 マット・グロッソ州のムッツンでの1年間の生活を経て、リオ州のマルケス・デ・バレンサで歩合でのトマト作りを4年行なった。同州グァピミリンなど転々と動いた後、ミナス・ジェライス州のカランダイと「良い土地を求めて」歩き周った。
 カランダイでは、トマト生産のほかにバラ(切り花)を育て、ドイツなどヨーロッパ方面に輸出。「その頃では、当時が一番(経済的に)良かった」と正男さんは振り返る。
 千恵子(ちえこ)夫人(66)とは同地で結婚。州都のベロ・オリゾンテに出て、日本人向けのレストランも営業した。
 その頃、正男さんの母親・アサノさんが63歳で死去。伴侶を失った父親の正次さん(2006年11月に94歳で死去)は、グァピミリン時代に汽車に跳ねられて左足首を切断する大事故に遭っていたこともあり、知り合いのつてを頼って77年に単身、現在のサンタレンに移って来ていた。
 正男さん夫妻も2人の子供を連れて、1983年にサンタレンに転住。ピメンタ(コショウ)栽培に従事した。当時はピメンタの値段も良かったが、変動が激しく、2006年頃から日本向け大豆の生産を行なっている。
 90年代初頭から、アセロラ、マラクジャを中心とした熱帯果樹のポウパ(冷凍果肉)の製造販売も開始した。現在ではクプアスー、グラビオーラなど十数種類に増やし、国内で年間200トン近くを生産しているという。それ以外に、大豆の加工品として、豆腐、納豆、油揚げなどを週1回(土曜日)サンタレン市内の中央市場で販売。千恵子夫人と長女のマチコさんが担当している。
 「仕事をすることが好きですね」と正男さん本人が語るように、農業に対しても熱心だ。土地改良のために自ら堆肥づくりを行ない、木酢(もくさく)液も作っているという。ポウパ作りは息子たちに任せ、「血圧を下げるのに良い」などと言われるノニを栽培し、乾燥させて販売するなどしている。
 「土地と女房は、可愛がれば可愛がるほど良くなりますよ」と笑いながら話す正男さん。サンタレンの土地の利と、自らのアイデアを生かした生産販売態勢で成功を収めている。(2016年3月号掲載)


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松本浩治 :  
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