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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2018/12/14)
2005年8月号

2005年8月号 (2005/08/04) ウマを囲んで

サンパウロ中央老壮会 栢野計治
 「計や、さっき通訳さんが来られて、馬をやるからすぐに、監督の家に取りに行くように、と言われた。どうせただで呉れるというからには、婆馬か跛じゃろう。それでも何かの役に立つかも知れんから、早よう行って、一番良いのを選んで貰って来いや!」
 黒い土埃の汗を垂らせながら、畑から戻って来た僕をつかまえて、台所で何か刻んでいた母が、前垂れで両手を拭き拭き、こんなことを言った。母がものを刻んでいると言っても、着伯したばかりの移民の台所には何も無い。大方畑に自生しているマモンの青実を、煮物か汁の実にするために、俎の音を立てていたのであろう。
 僕等一家が移住を決意したのは、海外移住斡旋業者が「ブラジルにはバナナなどいくらでも自生していて、熟れ放題、鶏は何処にでも卵を生み落としている」と言うのをまともに信じていたので、馬の一頭ぐらいただでくれるというのを、少しも疑わなかった。
 僕は移民の荷の柳行李を縛った細引きを、馬の綱にしては少し心許ないな、と思いつつ腰に巻いて三、四十軒並んでいるコロニアの高台にある、監督の家に馳けつけた。
 渡伯した我々を、サントスに迎えに来た通訳の山中さんの舅の大槻さんは、同じ耕地にいた先輩で、コーヒーの畝間に作った大根や芋をくれる親切な人で、みな父のごとくに慕っていた。その人の息子が、遊びに行ったぼくを、愛馬に乗せてくれた。生まれてこの方始めて乗馬の面白さを味わったばかりのぼくは、まだその興奮が抜けきらずにいたので、胸をはずませて駆けた。
 だが、監督の呉れたウマと言うのは、カイブロで作った木のウマで、寝台の脚にするものだった。それを家族数に合わせて、七人家族のわが家には、六台の割当があり、板はそれに合わせて呉れるという。耕地が寝台のウマや板を心配してくれるのには理由があった。
 配耕された移民等に家具など無いのは当然で、皆土間に莫塵を敷いて雑魚寝をしていたが、アメリカ帰りという同航者の一人が、コロニアの仕切り板を剥いで、寝台、食卓、床机など作った。一同はその知恵に感服して、みなそれに習って板を剥がした。
 それはすぐに監督の知るところとなり、言葉は判らないままに、不法行為を咎めたのは顔色で合点した。移民等は柳行李の底から、白粉、手拭いなど贈呈して何とか宥めた。その時、通訳の山中さんが「寝る所もない移民に、寝台の板もくれないファゼンダも悪い」と抗議したので、このウマや板の配給となったのである。
 当時十二歳、小柄なままに頑張り屋だったぼくは、重いカイブロのウマを細引きで縛って、六台分を担いで家まで辿り着いた。
 「ウマを貰って来たぞ!跛ではない、四つ脚揃った奴だぞ!」
 少しヤケ気味になり、暗くなってカンテラの灯っていない家の奥に向かって怒鳴った。
 台所より母や祖母、畑から帰り着いたばかりの父や姉が飛び出て来て、六台分のウマを見た。一同初めは呆気にとられていたが、その内に顔を見合わせ、腹を抱えて笑い出した。「木の葉が落ちても可笑しい時の」十四歳の姉は笑い過ぎて、腹が痛くなり、大粒の涙をこぼすほどだった。
移住するために、故郷の親しい人々と別れて、移民船での生活、サンパウロの収容所より出て、火の粉を吹く列車にゆられて六百キロの奥地での耕地での生活。言葉も判らず、食べ物、生活用具もない不安な毎日。これまで笑顔など見せたことのない父母が、一切を忘れて声を上げて笑い合うのを目にしたぼくは、可笑しさの涙より別に、十二歳の長男としての、心の安まる涙があったのだった。


カナダの森の大和魂

在カリフォルニア 香山充男
 カナダ北オンタリオの冬は長い。九月の声を聞くとポプラの木々は明るい黄色に染まり始め、間もなく山々を覆う楓の森が真紅に燃え上がると、まるでそれが合図でもあるかのように、渡り鳥達が慌ただしく旅立ちの準備を始める。木枯らしに追われた鳥達の大群が南の空に消えると、五大湖から吹き上げる冷気と、遠くハドソン湾から駆け降りて来る極北の風が人蔭の薄い街並みを吹き抜けて冬将軍の到来を知らせてくれる。やがて訪れる雪と氷は、再び五月の陽光が天空に溢れる日まで、只ひたすらに凍りついた大地を抱きしめるばかりである。
 こんな冬に生きる日系カナダ人のM夫妻と出遭ったのは暖炉が赤々と燃える小さな山小屋の中であった。近くの町に住み、時折この山小屋を訪ねると云うM氏は当年八十三才、カナダへ移住して六十七年を数える。当時十六才であった同氏が広島在の父母のもとを離れてカナダに渡った昭和十二年、日本は本格的な日中戦争に突入している。そして四年目、太平洋戦争が始まり強制収容所送りとなって、両親との再会の道を絶たれた彼は、戦後その両親と義妹の総てを広島の原爆で失ったことを知らされる。土地も資金も無いこの日本の若者は、人手不足だったカナダの森の伐採業に職を得て孤軍奮闘の半世紀を送ることになる。
 「気がついたら八十を越していました」と笑うM氏の顔に深い年輪が刻まれていた。今年八十才を迎える妻は、森の飯場で働きながらこの夫を助け三人の立派に成長した息子達を育て上げた。息子達は夫々、高校の教師、電機会社の技師、そして町の紙パルプ工場の技工として幸せに暮らしている。カナダに生まれ、カナダに育った彼らは、それでも日本人の心、日本人の誇りを失っていないと、M氏は誇らしげに断言して見せるのである。
 「小学生の頃からそうでした。息子達はいつも、学業でも、運動でも、負けたら日本人の恥になるといましめあっておりました。そうやって、歯を食いしばってカナダの大地に生きて来たのです」「親の私達が教えた訳でもないのに、今では孫達が全く同じように、負けたら祖国日本の人達に笑われるという始末です。こういう心を、若しかしたら〃大和魂〃と云うのでしょうか」
 その夜、吹雪の宿で寝る私の耳に〃大和魂〃と云う言葉が繰り返し聞こえていた。正直に言って、この言葉が私の脳裏を去ってから随分長い年月が流れるように思う。
 M氏は時折、言葉を探しあぐね、時に英語の表現を交えながら、〃日本人としての誇り〃について語った。
 「祖国は本当に立派な豊かな国になりましたね」とも言ってくれた。しかし、かえり見て、日本人は本当に彼の語るような民族としての誇りを共有しているのであろうか。日本は今、本当に立派な国家になったと言い切る事が出来るだろうか。戦後六十年、堂々として国造りに努めてきた反面、人々は営利と物欲、私利と私欲に身をゆだねて来たのではないだろうか。総ての価値が金銭と物財の尺度で計られ、美徳が享楽の渦の中に消き、教養と知性が、浅薄な奇弁と妄言の世界に埋もれてしまったのではないだろうか。現在の日本と、日本人は、この六十年間、カナダの森に生きて、昭和の始めの澄みきった目で遠い祖国を直視する日系人達と、果たして堂々と対面することが出来るのだろうか。
カナダは今日も雪空である。深い積雪の中、音の無い世界で、私は今、忘れかけていた〃大和魂〃の真実を探し求めている。(「薫風」第五十四号より)


北方領土

サンパウロ中央老壮会 谷口範之
 シベリア抑留時代の仲間も次々になくなり一年に数回の便りを交換していた戦友の一人は鬼籍に入って一年になる。最年少であった私が八十歳を迎えたのだから、当然のこととはいえ、寂しい限りである。
 先日思い立って、身辺整理を始めたところ、前記戦友の便りの中に「北方領土」に関するガリ版刷りがあった。
 彼は亡くなるまで右翼的思想を持ち続けていた。「ふるさと」という表題のガリ版刷りの文芸誌を毎月発行するかたわら、「一言」という時事評論を随時発表していた。
 そしてこれを通じて、草地貞吾氏(元関東軍参謀陸軍大佐九十五歳・「朔北の道草」=ソ連長期抑留の記録=の著者)から自筆の手紙を貰ったりしていたようである。
 その以前には、やはり「一言」を通じて荒木貞夫閣下からお手紙を頂いたこともあるそうだ。
 その彼の「一言」平成十年八月一日十三号に、表題、北方領土の、終戦時における隠れたエピソードが書かれている。時、あたかもロシアのプーチン大統領の訪日予定が報道されており、議題の中に北方領土問題も含まれているという。
 一九九一年に瓦解したソビエト時代はもとより、新生ロシア国になった現在まで二島返還の話はあっても四島返還に応じる気配はまったく見えない。
 故人の文章をここに再録し、なぜ四島がロシア領になったのか、経緯を知って欲しいと思う。
  ×  ×
平成十年八月一日「一言」十三号
 アメリカのスキ狙い「火事場ドロ」
 ソ連軍、北方四島不法占拠の真相
 北方四島がソ連からどのように不法占拠されたか、それを知るたった一人の日本人。元第九十一師団作戦参謀として身を挺して戦った水津満氏の証言が、昭和五十六年九月八日付「自由新報」に、十一段抜きで大きく報道されている。同記事を借用し、ごく簡単に紹介させていただく。
   ×  ×
 昭和二十年八月十五日、玉音放送の三時間後、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は戦争開始指令を出した。
 ソ連軍が千島列島の最北端、占守(しゅむしゅ)島に上陸したのは八月十八日の未明。この戦いの死傷者は、ソ連側三千名、日本側七百名という大激戦であった。
 戦闘二日後、停戦協定調印のため、師団長と幕僚らが赴く。その時、ソ連側の最高司令官グネチコ中将が勝ち誇るあまり、調印の席で口を滑らせた。
 「われわれは一日で占守島を占領し、あと八月二十五日までに北部クリル諸島(北千島)を武装解除せよ。との命令を受けてきたのだ」と。
 この発言は重要な意味をおびている。つまりソ連の武装解除の目標は、千島の北部であって、北方四島を含む千島列島全部ではなかったのである。
 (中略)師団長はこの要求を拒否し、代わりに私が師団長代理として、ソ連軍に同行した。政府の資料には「水先案内人」とされているが、日本兵の降伏説得に当たるための明らかな人質である。
 ソ連の軍艦に私一人乗せられて(中略)武装解除の最高責任者は、占守島を攻撃した師団の参謀長ウォルロフ中佐である(中略)しかし、得撫(うるっぷ)島の沖合いにさしかかった頃から状況が違ってきた。(中略)得撫島に上陸する気配は一向に見られなかった。ウォルロフ中佐に理由を尋ねた。
 「すでにアメリカ軍が来ているかもしれないので、今、偵察をしている」と中佐は答えた。(中略)南に向かうのは当然である。ところが北東に進路をとっている。
 ウォルロフ中佐に行く先を尋ねたところ、「北千島に帰る」と言う。
 「なぜ南に行かないのか?千島列島全部の武装解除をするんじゃないのか」と再度私は尋ねた。中佐の答えは「これから南は米軍の担当だから、ソ連は手を出さないのだ」というものだった。
 「これから南」とは、まさに国後、択捉、歯舞、色丹―の北方四島である。
 この証言も武装解除に携わった最高責任者の口から出ただけに重要である。つまり当時のソ連は北方四島まで武装解除する作戦ではなかったのだ。
 その頃、私はソ連軍の真意がまったく分からないまま得撫島からUターンし、北千島に帰ってきた。それから二ヵ月後、ウォルロフ中佐に会った時、同中佐は二階級特進して、少将に昇任していた。
 もし、北方四島がソ連の武装解除作戦に含まれていたとすれば、Uターンした中佐は昇任どころか降格か処刑されていたはずである。
 その後、私はソ連に抑留され、昭和二十五年に復員するまで、当然、北方四島は米軍が占領しているものとばかり思っていた。ところが現実はソ連軍だった。
 私の体験したことと併せて、北方領土問題の研究に取り組んできた結果を照合して言えば、ソ連は北方四島は日本国有の領土であることをよく知っていた。そのため四島を占領する考えはなかった。
 しかし、得撫島までの占領を完了して、その後偵察してみると、終戦後二週間以上も経過しているのに米軍はまだ手をつけていない。その空白を狙って、四島まで占領してしまったというのが真相である。
 ソ連の国後、択捉、以南の四島の占領。いわば終戦のどさくさにまぎれた「火事場泥棒」だ。と結論付けられる。(つづく)


移民慰霊祭の日に

オーリンニョス長寿会 金田 敏夫
 サントス港に入港した笠戸丸九十七年目の記念日を迎えおめでとうございます。
 私も笠戸丸入港の年の生まれで九十七歳。当地在住七十九年で誠に感慨深いものがあります。
 彼ら先駆者移民を想う時、ファゼンダの奴隷のような生活に言葉も通じず、食事にも事欠き、病の時も医者の顔に接することもなく、成功したら三、四年で帰えられるとがんばっていた彼らの悲痛さ、故郷の父母兄弟、山河を懐かしみ、日本を思いながら異郷の土になった血と涙の苦悶の数々は現在の二世、三世の人々にはまったく想像もつかないものと思います。
 私の親友のマカコベーリョ(戦前移民)が孫の入学の折、昔の苦労話をしたところ、なぜそれほど苦労をしなければならなかったのかと笑ったので、それ以後昔話はやめたと言ってました。
 しかし彼ら先人たちのお陰で今日我々の繁栄があるのであり、苦悶の歴史と慰霊に対し深く哀悼の意を表したいと思います。私たち明治、大正、昭和、平成の四世代を生きた者も今ではごく小数になり寂しい限りです。
 現在の私は近隣の皆さんの暖かい思いやりに支えられて、楽しい毎日を過ごさせて戴いている事に誠に感謝の至りで深く深く御礼申し上げます。
 それにしても八ヶ月前に他界した妻を思う時、総じて移民妻の宿命とはいえ、長い農業生活の貧乏暮らしで長く苦労させたことが惜しまれてなりません。日本から持ってきた絹の夜具の中で、グチ一つこぼさず涙一つ流さず私について来てくれた妻。三十人近いカマラーダの食事、七人の子供の正月着とて二晩も徹夜で仕上げ、畑仕事も休まず毎日出て来た思い出等など。毎晩、仏前でお詫びをしています。息を引き取る一週間前の事、パイプを引き抜くのを防ぐために妻の両手を縛っていた私を恨んでいるだろうと思ったのにかえって「長い間ありがとう。長生きしてね」と私に言ってくれた時、思わず涙がこみ上げてきて、合掌しました。あの最後の淋しい別れの笑顔が今も私の目に焼きついて忘れられません。妻とは何であったかと考えさせられます。今から三年後、移住百年祭を迎えます。実り多い移民祭であるよう祈るのみです。私にとっては一期一会、明日を期することは難しいでしょう。今日一日を大切に生きる事に精一杯です。皆様にいたわり支えられてお蔭様で今日ある私。厚く厚く御礼申し上げます。
 五年前、北海道江差町から招待を受けて唄った江差追分を今日まで心の支えに生きてきました。日本民謡の王様、江差追分をせめて先亡移民と妻の霊に捧げたいと思います。合掌


ペルナンブコへの旅②

名画なつメロ倶楽部 水村春彦
第三日(五月二日)

 民宿のお内儀さんはベアトリスという。彼女の話だと、島の人口は約三○○○人。年間を通じての観光客は三万五千~四万人とのこと。道路事情ののせいか、殆どの車はジープかブーギ車である。
 フェルナンド・デ・ノローニャは、大小二十九の島々から成り立っており、地理的特徴はモーロ・デ・ピッコという名の大岩だろう。天に向かって突き出ていて、航海中の船にとっても燈台みたいで、かっこうの目印になるだろう。聞くところによると、この島までの距離はレシフェ(五六〇キロ)、ナタール(三四〇キロ)、サン・パウロ(三三六〇キロ)であり、アフリカ大陸のリベリア国までが二六〇〇キロというのだから、サン・パウロよりアフリカの方が近いことになる。
 今日のガイドはタリタという黒人女性で、十二人のグループ。まずはノッサ・セニョーラ・ドス・レメジオスの砦跡である。小高い丘であり、結構登りがきつい。島がポルトガル人の某に発見されたのは一五〇三年というから、ブラジル発見の三
年後でしかない。
 イグレージャ前の広場に出て、カザロン(ミニ博物館)をのぞく。十八世紀には地理的にも重要な存在だったせいか、十の要塞が建造されていたらしい。すぐ下は海に面していて、プライア・ド・メイオで小休止。三十分ほど波打際を歩く。ボルト・デ・サント・アントニオまでマイクロバスで走って昼食。
 午後は中型遊覧船による島めぐりである。ボーイ格の赤ズボンのカルリンニョ兄さんが、刺身をご馳走すると言って、百番のテグスを取り出す。右肩にイルカの刺青を彫った兄さんは、十センチほどの疑似餌のついたテグスで流し釣りを始めた。右の人さし指にはゴムのテープを巻きつけ、自信たっぷりの様子で、十分ほどしたらマグロみたいな魚がかかったのだが、何と頭の部分だけを残して哀れな姿である。ツバロンにでもやられたものらしい。
 二十分ほどして今度は本物のバラクーダ、体長約八○センチ、七キロはあるだろう。サン・パウロではついぞ、お目にかかったことがない魚である。後部デッキに引き上げると、用意してあった板ぎれで頭部をメッタ打ちにして気絶させる。大型俎板も包丁もちゃんと揃っており、手慣れたものですぐ輪ぎりにしたものを塩味でフライパンで妙めて客にサービスする。なかなか乙な味だった。刺身もおいしいそうで、ワサビ、醤油まで準備はしてあると言う。
 サンチョス海岸で船は錨を下ろし、二時間ほど休む。潜水を楽しむのは大半は若夫婦、中には四才の男児連れもいる。水はぬるくて気持がいい。マカロンなる救命棒を二本使うと浮かぶのも楽である。水が透明なので魚が泳ぐさまも見える。途中
には大岩の間に自然に出来た割れ目があり、マッパ・ド・ブラジルと名づけられた観光名所がある。
 夕食後、クリチバから来ているブラジル人若夫婦と一時間ほどしゃべって過ごす。彼等は潜水を楽しみに来たらしいのだが、今日は船が揺れて酔ってしまい、うまくいかなかった由。(つづく)


私のペット物語⑤「傷ついた鳩」

リベルダーデ仲よし会 山田操
 四カ月ぐらい前のことですが、孫娘が道にうずくまって羽根に怪我をしていた飛ぶことの出来ない鳩を家に連れてきました。
 鳩は汚いし、羽蟲がわくから「どこかに持って行ったら」と言っても、「可哀想だから」と家にある大きな鳥かごに入れて飼うようになってしまいました。
 二、三日後には近所の医者に連れて行き、注射をしてきました。毎日、餌にひまわりの種をやったりして孫娘はサッサと仕事へ行ってしまいます。後は私の係りにしてしまい、水を取り換えてやったり、ミーリョの粒をやったりなど余計な用事ができてしまいました。
 「早く何とかしてよ」と言っても「そうね」と言うだけですましています。
 一ヶ月もしたら慣れてきて、人間がそばによっても驚かなくなり、孫娘の顔を見ると、バタバタと羽をばたつかせて喜ぶようになり、私はただただ呆れてしまうばかりでした。
 なにせ一日にポンジーニョの上皮を三つ分ぐらい食べる大食いなのです。毎日パン屋へ行って五個ぐらい買ってこなければなりません。少しずつ飛べるようになり、物置にしてある部屋の高い所まで上って遊んでいました。二ヶ月位しましたら、羽根の怪我もすっかり良くなり飛べるようになると、窓際にちょこんと座って外を見ていて、犬が出てくると部屋に入ってしまいます。
 ここ一ヶ月ぐらい前からは外に飛び出していくので、「やれやれ、出て行ったわ」と、思っていると孫娘が仕事から帰ってくる車を見ると、ちゃっかり部屋の窓に舞い戻ってきており、こちらが驚くばかり。この頃では二時半頃になって屋根をみると、ちゃんと見下ろしており、車がガレージへ入るころにはすでに裏の方へ行って、孫娘が来るのを待って餌をもらい、犬の姿が見えないと犬の水入れで水浴びまでしているほどです。鳩でも助けてくれた恩を知っているのかしらと思う時もあります。最近では雄鳩を連れてきて、二羽で並んで隣との塀の上から見下ろしているのですから、これから仲間を何羽も連れてきたら一体どうなるのでしょうか。
 こんな訳で好きで選んだペットではないのですが、動物好きの孫娘がやたら拾ってくる犬やら、猫やら、そして鳩にまで囲まれててんやわんやの毎日です。


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